chocolate experience
ナツハルバレンタイン

 俺とナツキさん――父さんの、パパ活を始めてから初めて迎えるバレンタイン。
 本日は少し気が早いバレンタインデートだ。当日はどこも混むだろうし二人の休みも合わなかったから、予定を前倒しにした。
 俺の脳内のバレンタイン野は非常に貧弱だ。なにしろこれまで、女子からのチョコはすべて「食物アレルギー」の一言で突っぱねてきたから。素人の手作りなんて食中毒や異物混入のリスクは計り知れないし、夢見がちな自己満足を押し付けられた挙げ句、感謝がないと逆恨みされるなんて理不尽すぎる。ましてや押し貸しの利息を取り立てるホワイトデー? クソ食らえだ。
 他人のために使ってやる金なんて一銭もない。金があれば、ストーキングの必要経費か参考書に注ぎ込みたいと思って生きてきた。
 そんな俺が自分の意志でバレンタインの贈り物を買い求めるとは。一体誰に想像がつく?
 女性陣で埋め尽くされたデパ地下に出陣するのは少しだけ照れくさかったけど、「誰が何買ったっていいんだ、資本主義万歳!」と己を奮い立たせ。健全な方のバイト代が許す限り、一番いいチョコレートを用意したつもりだ。
「ふへへ……♡」
 ショッパーが皺にならないように、慎重にバッグに入れる。
 父に拒絶された十歳の冬。まさかこんな日が来るなんて思いもしなかった。
 驚く顔を想像しては、思わずにやついてしまう。父さん、喜んでくれるといいなぁ。

 まるで二人のデートを祝うように、今日は二月の寒さも緩んで春の陽気だ。
 空気も優しいし、街もなんだかそわそわと浮き足立っている気がするのは、単なる投影なんだろうか?
「ナツキさん、お待たせ!」
「ハル〜♡」
 今日も今日とて、すでに待ち合わせ場所にいたカレピの元に早足で駆け寄る。早めに家を出ようがいつも父さんが待っていて、俺が先に着けたためしがないんだよなぁ……。
 長身にイギリス製のコートをまとった父さんは本日も水も滴るいい男だ。混雑した駅前に佇めば、それだけで衆目を集めずにはいられない。
「眼鏡してる!」
 今日の父さんはウェリントン型の眼鏡をかけていた。そのおかげか、なんだかいつもより雰囲気が柔らかい。父さんはたたでさえ上背があるし顔も整いすぎているために、普通にしていても圧を与えてしまう。だから周囲も、いつもより露骨な視線を投げかけているのだろう。
 民衆の無遠慮な視線から姫を守るため、さりげなく壁として立ちはだかる。
「たまにはイメチェンもいいかなって。あ、でも老眼鏡じゃないからな! 似合う?」
「そんな意地悪なこと考えてないから……すごく似合ってるよう♡」
 その場で軽くいちゃつきつつ、つい手元を見てしまう。手荷物のようなものは……ない。父さんは贈り物禁止だから当然とはいえ、少しだけ拍子抜けしてしまう。そんな浅ましい自分が恥ずかしかった。
 逢瀬の時間を無駄にしないために、さっそくタクシーに乗り込む。
「今日、どこ行くの?」
「秘密♡」
 人差し指を立てていたずらっぽく笑う姫。かわいいんだけど!

 力を入れているのだろう。目的地のホテルのエントランスには、バレンタイン仕様のアフタヌーンティー、と大きく掲示してあった。なるほど、今日は二人でのんびりお茶デートか。楽しみだなぁ。
 俺が案内に従い、うきうきしながらラウンジのほうに行こうとすると。
「ハル、そっちじゃないよ。こっちこっち」
「?」
 促されるままエレベーターに乗り、上階で降りる。
 エレベーターホールには仮設の受付が設えられており、ホテルマンが控えていた。父さんが名乗ると、速やかに個室へと案内される。
「わあ……」
 採光に富んだ見晴らしのいい部屋は色とりどりの花やバルーン、ガーランドで彩られ。まっさらなテーブルクロスの上は、ずらりと並ぶ料理で覆い尽くされていた。チョコレートだけじゃない、ケーキやスコーン、サンドイッチやアミューズも豊富に取りそろえられている。しかもティースタンドのない、本格的なやつ。
 手荷物なんてないわけだ。贈り物は、ここにすべて揃っている。
 言葉を失った俺に、何を思ったのだろう。父さんはコートを脱ぎながら、不安げに眉を下げた。
「……気合い入りすぎてて気持ち悪い? もしかして俺、空回ってる?」
 心配そうに俺の顔色をうかがうカレピに、ぶんぶんと首を振って否定する。
「嬉しいに決まってるよ! ……こんなすごいの予想してなくて、面食らっちゃって……」
「よかった、ハルは甘いの好きだもんな。初めてのバレンタイン、二人で目一杯楽しもうな~♡」
「うん!」
 まずは二人で記念撮影をし、シャンパンとペリエで乾杯して、人目がないのをいいことに、はしゃいでケーキや料理を食べさせ合って。会えない間に積もり積もった他愛もないことを、たくさん話した。
 愛の日のお祝いに大好きな人にこんなに尽くしてもらって、嬉しくて――だからこそ。
 少しずつ少しずつ、俺の気持ちは沈んでいった

 バッグの中、大した質量じゃないはずのチョコレートが鉛のように重くなっていく。
 朝は意気揚々とバッグに入れたはずだった。でも、桁違いのもてなしを受けたあとで、どんな顔でこれを渡せばいい? きっと喜んでくれるとわかるからこそ――躊躇われた。子どもの拙い贈り物を大げさに喜ぶ――それは親心であったとしても、けっして恋人の、じゃない。今日は愛の日なのに。
 そうこうしている間に、タクシーは父さんの家に着いてしまう。
「紅茶はあっちで死ぬほど飲んだから、今日はコーヒーな。おともはハルからのバレンタインチョコとか! あー最高♡」
 にこにことコーヒーを淹れながら、もらえることがさも当然のように断言する。俺も渡すのが当然だと思っていた――出かける前までは。
「あの!」
「うん?」
 無邪気に小首を傾げる父さんに、いたたまれなくなって目を逸らす。
「おれ……俺、バレンタインのチョコレート、用意してなくて……」
 二人の間に、沈黙が流れた。
「ごめんなさい……」
 掠れた声が我ながら情けなくて、涙が出そうだ。
 恥ずかしいと思うことこそ恥ずかしいと、肩肘張って生きてきた。でも父さんにだけは違うんだ。父さんの前でだけ、俺の心は無防備になる。
 血の繋がった親子なのに。本当になんでこんなに――俺達は違うんだろう?
 元はと言えば誰のせいで――と、恨む気持ちは起こらなかった。この人がどんなに俺を養いたかったか、しかし血を吐く思いで手放さざるを得なかったか、わかるから。金のない辛さ、金しかない辛さ。種類の違う不幸を張り合って、なんの意味がある?
「嘘だな」
 父は静かに言って、年代物のカップにコーヒーを注ぐ。
 無言のままトレイを持って、俺の横に腰を下ろし――しかしクリームやシュガーポットを配置をする横顔は笑っていた。長い脚を組んで、俺の顔をいたずらっぽく覗き込む。
「ハルが一月から、ずっとそわそわしてたの知ってたよ。デートのたびに遠回しに俺の好みを探ってきたりしてさ。そんなお前がバレンタインの贈り物、用意してないわけない。それに」
 つと、ソファの上を指差す。
「今日一日、ずっとバッグのこと気にしてただろ? ああ、中に入ってるんだなとすぐわかったよ。こっちはいつくれるのかいつくれるのかって、ずっとわくわくしてたのにさぁ」
「……っ」
 いたたまれなくて視線を落とすと、少しひんやりとした大きな手で頬を包み込まれる。
「お前が何を気に病んでるのかは知らないけど、ハルからのチョコはハルからしかもらえないんだぜ?」
「ナツキ、さん」
「俺のために用意してくれたんだろ? もらう人がいなきゃ、せっかく買ったプレゼントがかわいそうだ」
 涙ぐんだ俺を前に、父さんは空気を変えるように、唐突にぶりっ子し始める。
「ハルのチョコレート~、ほしいほしいほ~し~い〜!」
「わ、わかったよう」
 思わず泣き笑いになって、バッグからショッパーを取り出した。
「はい、どうぞ……嘘ついてごめんね」
「ハルからのチョコ……! うおお……げ、現実……」
 惜しみなく予算をかけたアフタヌーンティーを楽しんだ後だというのに。父さんはショッパーを天高く掲げて、絶句している。
 震える手でリボンを解き始めたかと思えば、すぐに絶叫した。
「ハート!」
「ハートだね……」
「赤い!」
「赤いね……」
「いろんな種類!」
「カレピの語彙力壊れちゃった……」
「ちょっと待ってて!」
 そう言うやいなや席を立ち、慌ただしく奥の部屋に走って行く。
 何をするのかと思っていれば、スマホで撮影するだけでは飽き足らず、一眼レフまで持ち出して宣材写真みたいなの撮り始めちゃったよ……。
「ハルも一緒に写って! 新しい待ち受けにする!」
「ナツキさん、ちょっと落ち着いて!」
「無理!」
 大騒ぎの撮影会が済んだかと思えば、今度は箱の側面をしげしげと眺め始める。
「どうしたの?」
「賞味期限までに週換算で何個食べても許されるのかと思って。一個は冷凍して永久保存だろ? えーっと――」
「そんな気負わないで、好きなタイミングで食べたらいいよ……」
「いーや、ハルからの初めてのチョコとか、激レアアイテムなんだから! 仕事で死ぬほど疲れたときにのみキメる! きっと疲労がポンと消え――」
「危ない薬じゃないんだから! ナツキさん、バレンタインは来年もくるよ!」
 俺の言葉に目を瞬いて、父は白い頬をほんのりと赤くした。
「そっ、か……この先もずっともらえるんだな……へへへ」
 俺も自分の言ったことに照れて顔が熱くなる。
 父さんは深々と頭を下げてきた。
「ハル、チョコレートありがとう」
「どういたしまして。俺こそ、今日はありがとう」
「カレピなんだから当然だろ。それよりハルが食べさせて♡」
「いいよ、あーん♡」
 ハート型のチョコをつまみ、父さんの舌の上に乗せると、途端にとろけた顔になる。
「……うま〜♡ このチョコが今日一うまい! いや、今まで生きてきた中で一番……?」
「ふへへ……大げさなんだから♡」
 確かに有名なチョコレートだけど、所詮は量産品だ。冷静に考えれば、ホテルの気合の入ったアフタヌーンティーには及ばないと思う。
 でもわかる。好きな人からの贈り物という最強のバフは、時に金額の価値をもひっくり返すから。
 と、父さんもトリュフを一粒摘まんで差し出してきた。
「ハルも、あーん♡」
「俺はいいよ。今日は目一杯ごちそうになったし、ナツキさんにあげたんだから」
「おいおい、うまいものと楽しいことは一緒に、の約束だろ? あーん♡」
「じゃあ一個だけ、あーん……」
 ガナッシュが舌の上でとろける。酩酊感さえ催す甘さ。
「……おいしい」
「な?」
 おいしいのは、父さんの笑顔が目の前にあるからだ。いつでも俺に気負わせまい、恥をかかせまいとする、暖かな思いやりがあるからだ。
 少し勇気を出して、肩に頭を預ける。建前上、今はまだ指を絡めたりはしない。……したいけど、しない。
 ああ、できることなら今すぐ来年になってくれ。辛抱し続けたこの人に、チョコよりも甘い贈り物を捧げたいから。……いや、やっぱり駄目だ。一秒でも長く、同じ時を共に過ごしたい。
 チョコレートとコーヒーの香りに包まれる。幸せな晩冬の夕方。愛しい男と寄り添える幸せを噛みしめる。
「来年も再来年もその先も、ずっとあげるからね。楽しみにしてて」
「楽しみにしてる」
「今日のデートも、すごく楽しかったよ。でも俺、ナツキさんの手作りチョコほしい……」
「よっしゃまかせろ、来年は我が家でバレンタインパーティするから。今からケーキ焼きまくって練習する」
「ナツキさんお手製のチョコレートケーキとか、すごいことになりそう」
 大騒ぎの来年のバレンタインを想像し、くすくす笑い合う。

 どうかこの幸せが続きますように。何があろうと、二人が離れ離れになりませんように。
 けっして誰からも許されない幸せを、俺は願わずにいられなかった。

2023/2/13 LOG収納

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