Birthday
いつかの冬春とヤシロさん

 ふと辺りを包む妙な静けさに、かぎ針編みの手を休め視線を上げる。
 いつの間にか窓の外では、しんしんと雪が降っていた。
「この雪みたいに白くて、林檎みたいに赤くて、かわいいはるくんに早く会いたい……」
 ひとりごちながら膨らんだ腹を無意識に撫でる。はるくんが「もうすぐ会えるよ」と応えるようにトントン蹴ってきて、口元がほころんだ。
 と、遠くの方から玄関のドアが開く音がした。続いて、洗面所で手洗いをしている気配。キッチンで冷蔵庫を開け閉めする気配。
 しばらくしてリビングに、顔をしかめた奥水ヤシロが入ってきた。
「ただいま帰りましたのですー。うー、お外さっぶいのです……ぶるぶる!」
 奥水は年甲斐もない耳当てを着けたまま、僕の手元を認め、呆れた顔になった。
「まーた性懲りもなく膝掛け作ってるのですか。もう三十枚も作ってるのに……そんなに作ったって、お腹は一つしかないのですよ?」
「何を何枚作ろうが僕の勝手だろう」
「はいはい、またぞろヤシロがハンクラサイトに出品しておくのですよ。漆田さんのかぎ針編み、高値で売れるのです。がっぽりなのですよ、にゅふふ」
「この僕が小銭に困ってるように見えるのか?」
 じとりと睨むと、相手は肩をすくめた。
「漆田さん、育児への情熱が空回りしているのですよ。アホみたいにお洋服とおもちゃ買って育児書読んでお帽子だの膝掛けだの作って体にいいものしか食べないとか……今からそんなことじゃ、いざ春也くんが生まれた頃には息切れしちゃいますよ?」
「はるくんのために息切れできるなら本望だ」
「親馬鹿ここに極まれりなのです……。おゆはんはヤシロ特製、あったか塩豚ポトフなのですよー」

 息子と共に幸せに歩んだ前世が幕を下ろし、今生にて再び自分に生まれ変わって。
 僕は無事、宿願を叶えることに成功した。というよりそれはほとんど、僕のお腹に無事辿り着いてくれた春也のお手柄なのだが。
 だが、単為生殖での男性妊娠――こんなことが知られてみろ、世間は蜂の巣を突いたような大騒ぎになるだろう。
 各国の研究機関がこぞって押し寄せ、僕らを体よく実験動物にしようとするのは目に見えている。ましてや赤の他人の思想の旗印に担ぎ出される? 冗談じゃない、まっぴらごめんだ。僕とはるくんのハッピーライフにおいて、おかしな注目を浴びることだけは絶対に避けなければならなかった。
 というわけで、本格的に腹が目立ち始める前に僕は家から出なくなった。
 はるくんの健やかな成長と僕自身の健康維持のための運動は、もっぱらルームランナーや庭での体操で済ませるとして――さて、その間僕の代わりに表で諸々の雑用を済ませる人間がどうしても必要になるわけだ、が。それがこの男、メイドガイの奥水ヤシロである。
 奥水と知り合ったのは今生ではなく、前世。僕がまだ冥探偵なんてやっていた頃の大昔。
 とある地方で奇っ怪な事件に巻き込まれ、その時たまたま居合わせた縁で――まぁそれはどうでもいいが。信じられないことに、この男は以前の僕が死んだ後もなお、同じタイムライン上で変わらず生きているのだ。
 死神男に、死なずのメイドガイ。
 餅は餅屋。訳ありの妊夫には、訳ありのメイド、というわけだ。

 深夜。
「――奥水!」
 僕は痛みに顔をしかめながら身を起こし、大声で廊下に呼びかけた。程なく、パタパタとスリッパの音が聞こえてくる。
「始まったのですか」
「ああ……」
「すぐに準備するのです」
「はるくん、苦しいよね。少し我慢してね、大丈夫だから」
 きっと不安でいっぱいだろう春也を、腹を撫でて安心させる。
 いつその時が来てもいいよう、完璧に準備は整えてあった。そしてなんとなく、「春也はこの日に生まれるのだろうな」という僕の事前予想を裏切らず。立春を明日に控えた深夜、陣痛が始まった。

 産婆を務める奥水はいつものメイド服ではなく、マスクにメディカルキャップと白衣を纏って傍らに立つ。
「……奥水」
 肩で息をしながら、手袋にばい菌がつかないよう、白衣の二の腕をきつく掴んだ。
「……不手際で春也にもしものことがあったら――僕はお前を許さないからな」
 常人ならすくみ上がるような声で言おうが、相手は常人ではない。脅しすかしも馬耳東風だ。
「そこはヤシロを信じてもらうしかないのですよー。それが嫌なら見世物になる覚悟で、最初からまっとうな病院にかかりやがれ、なのです」
 そこを突かれると、ぐうの音も出ない。
「いきますよ」
 短く息を吸い込む音と共に、暖房が利いているはずの部屋の温度が下がり、ラテックスに包まれた手が、ずぶりと僕の腹に沈んだ。
 心霊手術――とうに種の割れた陳腐な手品だ。手の中で血のりの入った袋を潰し、隠し持った動物の内臓を取り出して、あたかも体内から腫瘍やら何やらを切除したように見せかけているだけのショー。
 だが悪名高い奥水家の跡取り息子、奥水麗一にかかれば、それは手品ではない。
「ぐ……!」
 幸いと言うべきかあるのは陣痛だけで、腹を裂かれるほうの痛みはない。しかし痛む腹を直接まさぐられる、その不快感たるや! 筆舌に尽くしがたい。
「手元が狂うから、絶対動かないでください!」
 手厳しく言われ、春也のために脂汗を流して耐える。
 どれだけの時間が経ったのか、意識も朦朧とし始めた頃。シーツの上に血潮だけを残しながら、しかし傷跡一つ残さずに――奥水は僕の胎から春也を取り上げた。
 上がった産声は、祝福の鐘の音もかくやとばかりに僕の耳に響いた。
「ああ、はるくん……!」
「五体満足、元気な男の子なのですよー」
「そんなことは知ってる、早く拭いてあげろ。はるくんが風邪を引く!」
「ぶー、なのです」
 僕の血にまみれた春也は居心地のいい実家から急に追い出され、この世の終わりのように泣いている。
 奥水はてきぱきと臍の緒を処置した後、春也の体についた血液を拭い取る。最近ではドライテクニックといって、昔のように産湯を使わないらしい。
 本当は全部自分でしたかったけれど……人一人産んだ体力の消耗は予想以上で。しばらくは半身を起こすことさえできそうになかった。
 僕は焦れて、息を切らしながら目一杯そちらに頭だけを傾ける。
「おい……まだか、まだなのか!?」
「ちょっと落ち着いてくださいなのです。せっかちな男は嫌われるのですよ? ねぇ、春也くん。ごちゃごちゃうるさいパパですねー」
 奥水の声に「お父さんの悪口言うな!」と抗議するように、春也が一際高く泣いた。「むーん、この親にしてこの子ありなのです……」と辟易したように嘆く。どこまでも失礼なやつだ。
「さぁさ、お待ちかねのパパなのですよー」
 まっさらなおくるみで包まれた春也を、僕は震える手で受け取った。
「……ッ」
 儚い重さ、そして名に相応しい春のような温かさ。元気な泣き声。
 思わず涙ぐむ。もう二度と誰にも取り上げられない、僕だけの宝物。ようやく、ようやくこの日が来た。
「はるくん、お父さん、ずっとずっと待ってたよ。よく頑張ったね、えらいね……!」
「あらまぁ、鬼の目にも涙なのです」
「うるさいぞ、授乳するんだからあっちに行け。耄碌しすぎてデリカシーもなくしたか?」
「はいはいなのですよー」
 奥水は汚れ物を手早くまとめて部屋から退散した。
 さっそくお乳を含ませると、春也は泣いていたことも忘れて猛然と吸い始める。このがっつき具合、実にはるくんだ。閉じた瞼の奥で、多分目にハートが浮いてるな。

「ふふ……」
 本日何回目かのお乳をたんと飲んだ春也は、僕のベッドの隣に設えたベビーベッドで健やかな寝息を立てている。
 新生児なのに、すでに完璧な目鼻立ち。僕の王子様。僕の天使。僕のオバケちゃん。いつまでも眺めていられる。今日だけで何百枚の写真と何時間の動画を撮ったか。
 それにしても――と、腹をさする。
 さすがは心霊手術と言うべきか、僕の腹は傷跡どころか妊娠していた事実さえなかったかのように、雄の素っ気ない硬さを取り戻していた。元々体が頑健なのも合わさり、昼前にはふらつきつつも手洗いに行けるくらいまでに回復したくらいだ。いずれは心霊手術が新しい出産のスタンダードになる日が来る……のかもしれない。
「はるくん、おむつでもお乳でも、いつでも起こしていいからね。僕達の間で遠慮なんてしちゃ駄目だよ」
 僕が一人にやついていると、ノックの音がした。
 すでに寝間着に着替えた奥水が、盆に湯気の立つマグカップを乗せている。
「お休み前の、豆乳麦茶ラテなのです~」
「気が利くな」
「優秀なメイドガイですので」
 カップを受け取って一口啜る。処女懐胎以降口が変わったのか、最近はこういう甘い飲み物が妙に好ましい。もちろん春也を宿してからというものの、酒もノンカフェインじゃない飲み物も一滴も口にしていないが。
 と、奥水は胸元に盆を抱えたまま、一向に部屋から立ち去ろうとしない。僕が片眉を上げると、静かに口を開いた。
「我が世の春のところ、水を差すようで恐縮なのですが。どうするつもりなのですか――『それ』は」
 無表情に僕の背後を指し示す。そこには何もない。ベッドボードと壁があるのみだ。
 僕は肩をすくめた。
「別にどうもしない」
「あらま」
「知っての通り、呪いというものは、かけられた側が一切聞く耳を持たなければ――意味をなさないのさ」
 嘯いて、甘い飲み物を啜る。
 マイナスプラシーボ効果とはそういうものだ。罪悪感という種が植わっていない鉢に、どれだけ呪いを注いでも芽吹かない。だから、女鬼の呪いの『強さ』も『精度』も、僕達には何も関係ないのだ。こちらにはそれを受け取るセンスが欠けているのだから。本当に――人でなしを呪うほど不毛なことはない。
 奥水は寝間着の上に羽織ったカーディガンの前を合わせ、控えめにため息をついた。
「ノーダメージとわかっていても、呪うのをやめられない――ヤシロ、同情を禁じ得ないのですよ。しかも相手はほしいものすべて手に入れてるとか、世の中ほんと不公平なのです」
 この先、小奈秋と僕達が巡り会うことは二度とないだろう。それは彼女の望みでもあるし、僕達の望みでもある。
 ただ印画紙に焼き付けられたように。古い呪いだけが今も、ずっと消えることなく残っている。それくらいは別にいい。罪人の証である刺青を、僕は強いて消そうとは思わない。
 奥水は春也の布団を直しながら、目を細める。
「テクノロジーやネットが発達して、古い信仰の力が弱まって、今では神の代わりに子どもが過剰に神格化される時代なのです。子どもは素晴らしい、家族は素晴らしい。誰もそのことを疑わないし、疑うことさえ許さない」
 だけど、と奥水は目を伏せた。
「――でもそんなにまで神格化しておきながら、どうして人は相も変わらず家族を捨てたり、邪険にしたり、裏切ったり、殺したりできるんでしょうね? 虎の威を借りるときだけ利用され、仕方なくで捨てられていく……何もそんなところまで信仰のテンプレをなぞらなくてもいいでしょうに」
 生きているだけでは幸せになれないように、家族が無条件の幸せを運んできたりはしない。
 思ったほど幸せになれなかった、程度ならまだましで、実際には家族がとんでもない不幸を運んでくる可能性すらある。そのことに早めに気付かないと、最も身近な誰かを深く恨むことになる。
「他人の家庭なんて知らないし、どうでもいいな」
 僕は、きっぱりと言った。
「少なくとも僕は――僕達父子は、まともな家族には当てはまらないだろうから。その辺の親子愛と雑にくくられても逆にこっちが困る」
 メイド男は呆れたように笑う。
「……まぁ、誰しも生まれちゃったからには生きるしかないのですよねぇ。それが罪のない誰かの上に成り立つ、呪われた生だとしても」

 三ヶ月後。
「新しい身分証だ、受け取れ」
 運転免許証と一体化した社会保障カード、そしてクレジットカードを手渡す。偽造ではない、『奥水ヤシロ名義の本物』だ。これらと引き換えに、僕の出産をサポートするというのが二人の間に結ばれた契約だった。
「確かにもらい受けましたのです」
「それと――これは僕からの餞別だ。持ってて困るものでもないだろう」
 ついでにいくつかの札束を入れた封筒を渡した。時代が移り変わろうと、現生と純金の価値は変わらない。奥水は屈託なくそれらを受け取り、古びたトランクにしまう。
 早朝の玄関先は人通りもない。僕の腕の中で、春也はすやすやと寝息を立てている。
「奥水、行く当てがないならしばらくうちで雇ってやってもいいぞ」
 僕の提案に、メイド男は薄く笑んで、かぶりを振った。
「魅力的なお誘いですが、やはりヤシロは一所に留まりすぎないほうがいいのですよ。長年の経験則なのです」
「そうか」
 なんとなく、そう言われるだろうと予想していた。
「約束通り、漆田さんの人脈で評判広めておいてくださいね? メイドガイはかわいくて有能でホスピタリティも最高だったって。ヤシロ、今回のことでちょこっと自信を付けましたので~、これからはメイド兼産婆方面でも食っていこうと思うのです。あ、もちろん堕胎はなしなのですよ」
 言いながら、まるで人智の及ばない自然でも眺めるように、春也を見つめた。
「……世界は不思議でいっぱいなのです。処女懐胎に死なない男。こうもなんでもありだと、いつか」
 そこで言葉を句切り。
「生きていればいつかまた、あの方と巡り会える日も来るかもしれないって――そう思うんです」
 独り言のように呟いたその言葉が何を示しているのか、僕には知りようもないし興味もない。
「だから保険として、心霊手術以外の出産方法も考えておいてくださいね? 次に会った時のヤシロは、世間並みにお陀仏できる体になっているかもしれないので~、にゅっふん」
「そうなれるように心から祈ってるよ」
「むーん、思いっ切り棒読みなのです……。それでは漆田さん、ご機嫌よう。春也くんも、バイバイなのでーす」
 超然とした笑顔が朝靄の中へと消えていくのを、僕は黙って見送った。

「あー」
 目を覚ました春也が僕を呼ぶ。
「そうだな。僕達のハッピーライフ、今からぬかりなく準備しないと」
 そしてもちろん、未来の懸念に囚われるだけでなく、今の幸せを心から享受しよう。
 喜びと共に、僕の腕の中、ふやふやと笑っている幸せそのものに頬ずりした。

2023/2/03 LOG収納

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