スマホのアラームで目を覚ます。
「ん……」
顔をしかめてアラームを止めながら、ベッドの上で大きく伸びをする。
ダブルベッドの隣は、すでに空っぽだ。強雄の朝は早い。父はどうあっても俺にすっぴんを見られたくないらしい。
フローリングに足を下ろし、冬用の重いカーテンを左右に引く。
十二月二十二日、快晴。世間一般には冬至の日。
今日は父さんの誕生日だ。
顔を洗ってからダイニングに顔を出す。湯気の立つ土鍋を前に、父が小皿でお粥の味見をしていた。
振り向いて、隈の薄くなった目元が笑う。まるで絵画さながらだ。
「はるくん、おはよう」
「おはよう父さん――誕生日おめでとう」
「ありがとう」
にこ、とはにかむように笑うブルベ強雄。はちゃめちゃにかわいいんだけど!
暦に倣い、朝は小豆粥を食べた。二人のハッピーライフ、縁起はいいに越したことはない。
「この後、ランチがてら買い物に行こうか。予約したケーキも取りに行かなきゃ」
「うん」
外で昼食を済ませてから、行きつけのスーパーに買い出しに行く。行きつけと言ったって父さんの行きつけだ。これまでの俺にはまったく縁のなかった高級スーパー。
買い物メモを記したスマホを覗き込みながら、父は唇に指を当てて考え込む。
通りすがりの女、見とれるな。俺以外の全人類に告ぐ、父さんを性的な目で見るのは一切やめろ。
「寿司は届くとして……あとはローストビーフとブイヤベースにしようと思うんだけど、どうかな? 他に食べたいものがあればリクエストして」
「いやいや、父さんの誕生日でしょ? 自分の食べたいものにしなよ」
「はるくんと食べられるなら、僕はなんでもいいよ。それに――お父さんの一番食べたいものは、いつも決まってるから」
ゆるく波打つ髪を耳にかけながら、俺を見つめて意味深に弧を描く目。お外で殺し文句を言うのはやめてくれ。
顔を赤くして悶える俺をよそに、父さんはどんどんカートに品物を入れていく。父さんの買い物は全般的にそうなんだけど、特に食料品の買い込みの時、一切躊躇しないから肝が冷える。たぶん値札なんか見てないな……。
同居を始めて早々に「一切の隠し事と遠慮禁止」を言い渡されてしまったので、最近は刺身の盛り合わせとか、お高めのハムとかソーセージを、無駄にドキドキせずに買えるようになった。あくまでも無駄に、だ。ドキドキしないとは言っていない。ああ、QOLの急上昇で潜水病になる~……。
家に帰って早々、晩のご馳走作りに取りかかる。
「誕生日の主役に、ご馳走作らせちゃってごめんね」
エビの殻を剥きながら肩をすぼめると、父さんは流しで貝類を洗いながら微笑んだ。
「僕が家で二人きりで祝いたいって言ったんじゃないか。家ならゆっくりアルコールも楽しめるし――はるくんと並んで料理するの、夢だったんだよ」
「ふへへ……♡」
俺が照れていると、父さんは自分の紺色のエプロンを摘まむ。姫しぐさ。
「このエプロン、一番のお気に入りなんだ。特別に気合いを入れたいときはいつもこれにしてる」
「すごく似合ってるよう……♡」
俺も家事は一通りできるけど、料理はまだまだ修行中の身だ。
いつか父さんに素敵なディナー、作ってあげたいなぁ。
「父さん、お誕生日おめでとう!」
景気よくクラッカーを鳴らすと、父は溶けそうに相好を崩した。
「ありがとう、はるくん。初めての父子で過ごす誕生日、嬉しいなぁ」
「いや、父さんの誕生日もきっちり二回祝ったじゃん……すき焼き行ったでしょ?」
「ありがとう、はるくん。初めての父子で過ごす誕生日、嬉しいなぁ」
「ソウダネウレシイネサイコウダネ」
ナツキさん時代の誕生日、なかったことにされてるし……。
ローストビーフに二人のお祝い事にはつきものの寿司と、熱々のブイヤベース。こんなときくらい自分の好きな献立にすればいいのに、魚介類好きの俺に合わせてくれる父さんが愛おしい。
「はるくんが一つ歳を取るということは……僕もまた一つ歳を取るということ。当たり前だけど嫌だなぁ」
ため息をつきつつ、ナイフでローストビーフを切り分けてくれる。
「俺は三十歳からの最高な父さんしか知らないけど……三十歳までの父さんも最高だし、四十一歳の父さんはもっと最高だよ♡」
「ありがとう、はるくん」
白ワインを開け、二人で乾杯して。
楽しい晩餐が始まった。
父さんが腕によりをかけたご馳走に舌鼓を打つ。
ロゼ色をしたローストビーフ。最初はシンプルに塩とホースラディッシュで、次はグレイビーソースで。
「んん~……♡」
頬張るたびに澄んだ肉汁が溢れて、口の中が幸せすぎる。俺の好物は魚だけど、もちろん肉も大好きだ。
「テレビとかでさ、よくリメイクレシピって言うじゃん。『パーティーで余ったローストビーフを使って~』とか」
「ああ、あるなぁ」
「あれ、意味ないよね。だって余ることないもん、父さんのローストビーフ」
「はるくんがおいしそうに食べてくれて、お父さん嬉しい」
「ふへへ……♡」
少し獣臭くなった口にブイヤベースを含めば、トマトの酸味と魚介のうまみが舌を洗う。言うまでもなく、合間につまむ寿司はうまい。最高。
「でも父さん、こんなに間隔近いと誕生日とクリスマスまとめられたりしなかった?」
「いいや? うちは誕生日は家で祝って、クリスマスは家族で外食、というのが定番だったから。そもそも誕生日とクリスマスはまとめる意味がないだろう?」
「すごくちゃんとしてる……」
俺の誕生日が今日だったら、絶対クリスマスとまとめられていただろう。それに対して不満を覚えることはなかっただろうが、ちゃんとしている家は、ただただちゃんとしているものだ。
優雅にカトラリーを操りながら、父さんが小首を傾げる。
「はるくんは、クリスマスにはそんなに思い入れはないほうか?」
「子どもの頃は普通に楽しみだったよ。でもほら、今は父さんの誕生日のほうが一大イベントになっちゃったし」
「なるほど」
最愛の父の生まれた日と知らない男の生まれた日。どちらが重要かは言うまでもない。
だから、我が家はまだツリーを出していない。だって父さんの生誕祭を迎えてもいないのに、一足先にクリスマスのお祝いムードを出すのはおかしいだろ?
それはそれとして、二十四日は外でディナーを楽しむ予定だ。イベント事に託けて父さんとデートできるなら、俺はそれでいい。
「ユールボード――古来より北欧では冬至に死霊や悪魔や魔女が現れると信じられていたから、ご馳走を用意することで魔除けとしたんだって」
「父さんは博覧強記だなぁ。それに美人でかわいい」
「ふふん、お父さん、はるくんのお父さんだから」
褒められた父は得意げに肉を食む。
そうとも、死神の晩餐に死神以外の席はない。死霊・悪魔・魔女、おととい来やがれだ。
後片付けは俺が担当して、紅茶とケーキを用意する。
カップル用のホールケーキに、4と1のナンバーキャンドル。スマホアプリで照明を落として、マッチで蝋燭に火を点けた。ほんのりとしたオレンジの灯りに照らされ、父さんが俺を見つめる。
「はるくん、お誕生日の歌歌って」
「えっ」
「聞きたいなぁ、最近カラオケ行ってないし」
いや、普通に恥ずかしいんだけど。俺がまごまごしていると、父さんは先んじて手拍子を始めてしまう。
咳払いを一つして。
「んん……ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデーディア父さん、ハッピーバースデートゥーユー……父さん、蝋燭消して」
「うん」
死神に吹き消される蝋燭の炎――落語ならサゲの部分だが。
「おめでとー!」
「ありがとう、はるくん」
これは素敵なお誕生日なので、拍手して部屋の灯りをつける。
「ケーキ切るね」
「あ、はるくん、そのまま食べさせ合わないか。少しお行儀悪いけど……」
「父さん、天才」
甘いケーキを一口ずつフォークで食べさせ合う。うん、うまい。さすが評判の店。
きれいにデコレーションされたケーキを掘削しながら、父が苦笑する。
「しかし……誕生日が一年で一番夜が長い日、というのは僕の人生における何らかの示唆を感じるな」
「何言ってるのさ、父さんが冬至に生まれたのは、ここから世界が明るくなっていくって意味なんだよ。それに父さんが生まれきてくれないと、俺も生まれてこれないんだからね」
「はるくんが生まれてこないとか、控えめに言ってこの世の終わりだ」
「『鶏が先か、卵が先か』って言うけど……俺達の関係においては、いつだって父さんファーストだよ。父さんの息子に生まれた時点で、俺は永遠に父さんに負けてるよう♡」
「じゃあこれからも勝ち続けられるように、はるくんの立派なお父さんでいないとな」
「立派じゃなくても大好きだってば。安心して、これから先はハッピーなことしか起こらないから。はい、あーん♡」
「あーん……うん、はるくんが言うならそうに違いない。ほら、いちご、あーん」
「あーん♡」
「ふふ……はるくん、ほっぺにクリームついてるぞ」
「どこについてるかわかんない、父さんとって♡」
父さんは指でクリームをすくい、赤い舌で舐め取る。
「しょうがないなぁ、春也は。こんなにかっこよくて素敵なお兄さんなのに、深刻な甘えん坊で……」
「俺、父さんにしか甘えん坊しないもん」
「お父さん以外にしたら、はるくんは許すけど相手は殺す」
「あり得ないのわかってて言ってるでしょ……もう」
テーブルの下で、えいと父さんの脚をはさむ。父さんもはさみ返してくる。幸せな時間。
ケーキも無事胃に収まり、テーブルの上もすっかり片付け。
「父さん、これ、俺からのプレゼント」
満を持して、プレゼントの包みを差し出す。
ハルとしての二年間。俺はナツキさんの誕生日には毎年ささやかなプレゼントを贈っていた。俺の仕分けバイト代で強雄のクローゼットに溶け込めるような品なんて貢げるわけもないので、エプロンとかルームシューズとかの、家で使える実用品。父さんは大げさに喜んでくれて「俺は何も買ってやれないのにさ~」と涙目になっていたっけ。次に家に来たとき、色違いのルームシューズがしれっと用意してあったのはさすがに笑ったけど。
父さんはいつも通り、満面の笑みで受け取ってくれる。
「ありがとうはるくん。開けてもいいかな?」
「もちろん」
「ん……結構重い、なんだろう?」
目を輝かせながら包みのリボンをほどく。
シフォンの中から出てきたのは。
「あ……」
およそ大人の男性の誕生日プレゼントには相応しくない――ほ乳瓶と、粉ミルクの缶。
感に堪えないというように俺を見つめる瞳が揺らいでいた。
「父さん、きっとこれがほしいんじゃないかなって。俺なりにいろいろと考えた末の選択なんだけど……どう、かな?」
父さんは、なんでも持っている。俺が特別に買い与えられるようなプレゼントは何もない。それに何をあげたって喜んでくれるのはわかっているからこそ。
初めての『父』への誕生日プレゼントはどうしても、金だけでは購えないものにしたかった。
父さんはプレゼントをラッピングごと抱きしめ、うつむく。
「……お父さん、これ、すごくほしかったんだ。はるくん、なんで僕がこれをほしがってるってわかったんだ?」
「わかるよ、だって大好きな人なんだから」
「すぐに使ってもいいのかな?」
俺は、それには答えずに。
「冬至の日って験担ぎに『と』と『ん』の付く食べ物食べるんだよね」
「? そうだよ」
「とうさん」
父さんにとって、常に俺がそうであるように。俺とっての最高のご馳走。ケーキよりも甘いデザート。
未だ満たされない臍のあたりを押さえて微笑む。
「ご馳走いっぱい食べたけど……まだまだお腹に余裕あるよ♡」
父さんは無言で席を立ち、ダイニングを出て行った。
あれ、もしや俺の誘い文句は滑ったんだろうか……と不安になっていると、そこそこ大きな紙袋を抱えて戻ってくる。
テーブルの上に次々と置かれていく――スタイ、ボンネット、フリルソックス、ガラガラ、大人用の紙おむつ。
固まる俺に目を細め。
「ありがとう、春也。四十一年生きてきて、間違いなく最高の誕生日だよ。こんなにいい息子がいて、僕は世界一の幸せ者だ……!」
もう絶対に「嫌です」とは言えない雰囲気で、父さんがにこやかに笑った。
わかってたはずだろ。いいことだろうと悪いことだろうと、俺が父さんに勝てることなんて一つもないんだって……。
一年の中で、一番夜が長い日に生まれてきた父。
やはりそこには何らかの、示唆があるのだろう。