「ただいまー」
初冬の午後。
高校から真っ直ぐに帰宅し、玄関先にまで漂うシナモンとバターの香りを胸いっぱいに吸い込む。俺にとっての幸せの象徴。
「おかえり」
居間で動画の編集作業をしていた父さんが、PC用の眼鏡を外して微笑んだ。
共に暮らし始めてから徐々に依頼を減らしていった父さんは、俺の高校入学と同時に本業を廃業した。紅玉の出回る季節は紹介のみで法外な値段のアップルパイを焼き、それ以外の通年はオカルト系配信者『ナツキ』として週に二度ほど動画を上げている。まさに理想的なセミリタイア人生だ。
この顔面にこの声、人気が出ないはずもなく……。配信用の陽キャのナツキさんが繰り広げる考察や朗読で、主に女性中心に人気を博していた。父さんの好きなことはなんでもやらせてやりたいけど、俺は少しだけやきもきする日々を過ごしている。
うがい手洗いを済ませてダイニングを覗くと、予想通りケーキクーラーにアップルパイが乗っていた。
「やった、アップルパイ!」
「そっちは失敗したやつだから、明日平家に押し付けるつもりだ。はるくんはお皿にのってる方を食べなさい」
「ええ……失敗したほうあげるの?」
「当たり前だろう。一番出来がいいのは、常にはるくんのものだ。どうせ馬鹿舌ヘボ探偵には、焼成の違いなんてわかりゃしない」
「まーたそういうこと言う……」
思わず、くすりと笑う。この時期、居間に二人でいるとどうしても、あの日のことを思い出してしまって。
「はるくん、どうした?」
「ちょっとね、昔のこと思い出してたよ」
「お父さん……ですか?」
追い返す
▶家に上げる
不意にソファから腰を上げ、父がカーテンを開ける。埃まみれの部屋に夕日が差し込んだ。
「……はるくん、お母さんが心配するからそろそろ帰ったほうがいい。道順を教えるから、帰りは電車に乗りなさい」
財布から札を取り出す父の、よれたシャツを掴む。
「お父さん、お母さんと仲直りして。みんなで一緒に暮らそう? 僕からもお願いするから……!」
短い時間だがわかったことがある。
父は、俺を嫌っているわけではない。家族への愛情がないわけでもない。むしろ、その胸中は暖かな慈しみに満ちていた。だからわかり合えるはずだ、どんなすれ違いがあったにしても――
しかし俺の言葉にこそ、父は深く傷つけられたような顔をした。
「……無理だよ、復縁はありえない。でもそれは僕のせいなんだ、すべて僕が悪い」
「……どうして? 浮気したの?」
「浮気よりもっと悪いよ。お母さん以外の人を、本気で愛してしまったんだ」
予想もしていなかった答えに、がん、と頭を殴られたような気がした。
猛烈な嫉妬に駆られ、腰にしがみつく。
「はる……」
制御不能の、狂おしいほどの愛おしさ。どうして今まで、一緒にいなくて平気で生きてこられたのかがわからない。
「なんで? お父さん、僕のお父さんだよ。僕のなのに……!」
「そうだよ、春也。はるくんだけのお父さんだ……!」
父さんは膝を折り、力強く俺を抱きしめてきた。
くやしくて、悲しくて、父の胸をぽこぽこと叩く。しかし結局最後は、ぎゅっとしがみついた。
「お父さんの好きな人、誰? どこにいるの?」
殺意を無邪気で包んで問いかける。
玄関と居間しか見ていないが、この家の中に女の気配はない。見つけ出して殺してやろうかと、半ば本気で企んでいると冷たい指で頬を包み込まれた。
「ここにいる」
「え?」
「僕の一番好きな人は春也――お前だよ」
都合のいい妄想かと思った。
「はるくんがこの世に生まれたとき、お母さんを追い越して、はるくんが僕の一番になってしまったんだ」
「……いけないの? 家族が大事なの、普通だよ」
父が息子を愛して何が悪いのか。むしろ子どもよりも配偶者に重きを置くほうが、親としてはどうかしている。
隈を浮かせた美しい目が潤む。
「僕のは普通じゃない。こんな風に我が子を愛するのは……許されることじゃないよ」
こんな風に、とはなんだ。どこの誰に許される必要があるというのか。母か? 世間か? それとも神か?
そんなもの――
「僕が許すよ。僕も、お父さん好きだもん。一番好き。きれいでかっこよくて……優しいもん。お父さん好きだもん……!」
俺を抱く腕に力がこもる。成熟した雄が、必死に凶暴な衝動をこらえる気配。効いている、という確信を得て更に追い込む。
「駄目でも一緒にいて……もう離れ離れ、やだ……いい子になるから、言う事聞くから、一緒にいて」
シャツが涙で濡れ、父の、低い体温がまぶた越しに染み渡る。
父さんは飽きることなく俺の頭を撫で、その後静かに切り出した。
「……少しだけ、僕に時間をくれないか」
「やだぁ……」
「春也、辛抱するからこそ夢は叶うんだ。すぐに手に入る物なんて、どうせすぐに奪われる。せっかく両思いになれたのに。僕は、はるくんを二度も取り上げられるなんて絶対に嫌だ」
「でも……」
優しい、しかし有無を言わせない眼差しが俺を諭す。
「はるくんが一番大切だ。他は何もいらない。今日改めてわかった――お前の替わりなんか、どこにもいやしない」
きゅん、とへそのあたりが疼く。
そして唐突に理解する。この雄はずっと前から俺のもので……そして俺もまた、生まれたときからこの雄のものだったのだと。
「はるくんの夢は必ず叶うよ、いいや、僕が叶えてみせる。親は子の幸せのために――己を犠牲にすべきなんだから。はるくんが僕とともにあることを望むのなら」
鋭い瞳が鈍い光を放ちながら細められる。恐怖ではなく、官能に背筋が震えた。
「お父さんとお母さんは力を合わせて、それを叶えるべきだ」
俺は涙を拭い、抱きついた。次に会うときまで、この形と体温と匂いを、ちゃんと覚えていられるように。
「我慢すれば、一緒にいられるようになる?」
「ああ、そうだよ。僕は絶対裏切らない、必ず迎えに行くよ。一緒にいられるようになったら、キャッチボールもしよう。お父さん、昔四番バッターだったんだ」
「うん……!」
父に連れられ、勝手口から裏通りに出る。
「気をつけて帰りなさい。今日のことは二人だけの秘密だ。メモとカイロは、家に着くまでに捨てること、わかったね?」
「うん」
駅までの道順を書いたメモとカイロと電車賃を渡し、頭を撫でた。大きな手が両頬を包み込む。
「はるくん、辛くても寂しくても、僕を信じて待っていてくれ」
言いつけ通り、最寄り駅に着いた時点でメモとカイロは捨てた。
母には「一日図書館にいた」と嘘をつき、いつも通り夕飯を食べて風呂に入り、床について。
――その夜、俺は誰に教わるまでもなく、初めて自慰をした。
それからしばらく、父からのアクションはなかった。
あまりの音沙汰のなさに「あれは息子を追い返すための体のいい嘘だったのでは?」と挫けそうになることもあった。その度に信じてくれという、父の真剣な眼差しを思い出し己を鼓舞した。俺が父を信じなくてどうするのだ。
あれから一年。俺は学年が上がり、父からは相変わらずなんの音沙汰もないまま、再び冬が来て。
――寒の底だった、母が死んだのは。
仕事の帰り、歩道橋の下に倒れているのを発見されたのだという。母のパンプスのヒールは折れていた。足を踏み外しての、不幸な転落事故。
天涯孤独となった俺は呆然と時を過ごした。周囲も腫れ物に触れるがごとく接してくる。それはそうだろう。
俺はただうつむいて、一心に念じていた――俺の救いが来てくれることを。
お父さん、助けて……早くきて……。
通夜の晩。借家に慌ただしく人々が出入りする中。
こつ、と革靴の音が響いた。ごく小さなその音に、なぜだか辺りが静まりかえる。
颯爽、という二文字がふさわしい。こんな場にあっても、誰もが見とれて息を飲まずにはいられない立ち姿。
上質な喪服をまとい、無造作に伸ばしっぱなしだった髪は短く整えられ、やさぐれた不摂生の匂いはまったくない。どこからどう見ても、完璧な紳士。
「春也」
微笑んで広げられた腕の中に、俺は靴下のまま泣きながら飛び込んだ。
「お父さん……おとうさん……!」
この形、匂い、暖かさ。何もかもが待ち焦がれていた俺の男。
そして歓喜と安堵の中――まるで靴の中に入った砂利のような違和感。俺を抱きしめる左腕の、まるで無機物のような感触に、はっとして顔を上げる。父が苦く笑っていた。
「ごめんな、はるくん。約束したのに。キャッチボール、もうできないんだ」
――再会した父には、左腕がなかった。
そこから先、気味が悪いほどトントン拍子に事は進んだ。
事故で母親を失うという不幸に見舞われた子どもは、生き別れの父親に引き取られ、一緒に暮らせるようになりましたとさ。誰もが涙をそそられる、感動ドラマ。
――不幸な事故。
目撃者が誰もいなければ、不審を示す証拠が一つもなければ、検証すべき遺体が荼毘に付され失われてしまえば、それは"不幸な事故"なのだ。
奇しくも父もまた、仕事中の事故で腕をなくしたのだという。具体的に何があったのかは、ついぞ話してもらえなかったが。
替えの利かない才能の持ち主が、それでも身体の一部を欠損するくらいの案件だ。相応の――莫大な対価を得たのだろう。でなければそんな厄い仕事、父が引き受ける理由がない。
猿の手は運命すら捻じ曲げて、三つの願いを叶える。ならばさて、冥探偵の左腕には、誰にとってのどれくらいの価値があったのだろう? オカルトにすがらなければ叶わない奇跡すら可能にする、法外な価値が?
俺は父の、消えた腕の行方を思った。
アップルパイを切り分け、二人分のお茶を淹れる。
「お味はどうかな?」
「最高〜」
顔をほころばせる俺に、父も微笑む。
と、伸ばされた指先が俺の口元についたパイのかけらを摘まんだ。
「ほら、ついてる。はるくんはもうお兄さんなのに、子どもみたいだな」
笑う父の、長い指をかけらごと咥え、挑発するように目を細める。
「子どもはこんなことしないでしょ」
「まったく……どうしてこんな悪い子になったのやら」
「そりゃあ血筋のせいだよ、きっと」
「はるくんお前……僕以外にこんなことしてないだろうな……?」
「するわけないだろ! 父さんはすーぐ焼きもち焼いて……もう」
とにかく今夜は、甘いアップルパイのお礼をたっぷりしよう。
たった一度の逢瀬の後。"誰か"か"何か"かは知らないが、法外な取引をして父は俺を手に入れた。
体の不自由な父とその息子が、普通より距離が近くとも、誰も疑わない。むしろよくできた孝行息子と、世間はのんきに讃えるだろう。固く閉ざされた扉の内側で、何が行われているかも知らずに。
「父さん」
「なんだ、はるくん」
「父さんのこと――俺がずっと守るから」
俺の頭に頭をもたせかけ、心からの満足を込めて、父が低く笑う。
「ああ、春也、はるくん――僕だけの王子様」
水飴のような粘度の愛に肺まで埋め尽くされて窒息する。それがたまらなく心地良い。
出来すぎている、何もかも。母は、なぜ死んだのか?
我が子の幸せを願うなら、親は自分の身を犠牲にすべきだ。ある意味では、確かにそうなのだろう。
しかしその犠牲は本当に――母の自由意志で払われたのか?
内側から湧き上がる疑いの声。
俺はそれを無視するのではなく、認めた上で一蹴した。
三角関係なんて、そもそもこの世に存在しないんだ。完全な二人は、どこをどうひねろうが奇数になどなりはしない。
俺達父子に、間違ったタイミングは存在しない。どこで何を選択し、どんな筋道を辿ろうが、結局は同じ結論に達するのだから。
一つだけ言える確かなこと。
俺達は――とても幸せだ。