とある外国の、とある病院の病室に、二人の末期患者が入院していた。
一人は窓側のベッド、もう一人はドア側のベッド。窓側のベッドの患者は日々窓から見える光景を、ドア側の患者に教えてくれた。
窓の外には季節の花が咲き、鳥は歌い、虹がかかり――まるで天国のような光景が広がっているという。
ドア側の患者は頭の中で想像した光景を、辛い入院生活の慰めとしていた。しかしいつしか、自分の目で風景を眺めたいという願望を抱くようになっていった。
「一回だけでもいい、ベッドを替わってくれないか」
しかし、隣人は頑としてベッドを譲ってはくれなかった。
その頑なな態度に。感謝の心は次第に嫉妬へ、嫉妬は憎しみへと替わっていった。
「同じ末期患者なのに、あいつだけが窓を独占しているのは不公平だ。その上毎日毎日得意げに、窓の外の様子をひけらかしやがって……」
あんなに楽しみにしていたおしゃべりの時間も、この頃には慰めどころか苦痛をもたらすようになっていた。
そんなある日のこと。深夜、ドア側の患者は苦しげなうめき声で目を覚ました。窓側の患者が発作を起こしたのだ。
以前、窓側の患者が同じ発作を起こしたとき。自分が代わりにナースコールを押したことで危うく一命を取り留めたことがあった。男は再びナースコールを押そうとして――そこで手を止めた。
「こいつが死ねば、窓は俺のものだ」
ドア側の患者はナースコールから手を離し、寝たふりをして隣人を見殺しにした。
次の日、希望通りにベッドを替えてもらった男が喜々としてカーテンを開くと。
窓の向こう一面には、コンクリートの壁が広がっていた――
◆
「窓側の患者は辛い入院生活のせめてもの慰めになるように、優しい嘘をついてたってわけ。そんな人をドア側の患者は、我欲のために見殺しにしてしまった――切ない話だよなぁ、人間の愚かさというか」
平家は暇つぶしにはじめた小話を、そう締めくくった。
フロントガラスを冷たい雨が打つ。ワイパーが低い唸りを上げて水滴をぬぐっても、すぐに新しい雨滴に覆われてしまった。湿気のせいか、今夜は平家の金髪も元気なくへたっている。
俺は、しばらくの沈黙ののちに口を開いた。
「……この話を聞いたのは初めてだけど。お前の口振りだと、寓話みたいな扱いをされているのか?」
「まぁね。でも、エミが首傾げるのもわかるよ。後味の悪い話だもんな〜」
「確かにそうだ。だが、みんなこの話の本当の後味の悪さを、すっかり見逃しているんじゃないか。これは、すれ違いの切なさを書いた教訓話なんかじゃないぞ」
平家は俺に向けて顔を傾け、目を瞬かせる。
「……おいおい名探偵、一体今の小話から、どんな真実を見抜いちゃったんだよ〜」
「わからなかったか? 聞いているだけでもこの話、およそ不可解なところだらけだ」
「俺、なんか見落としたかなぁ……?」
俄然興味を引かれたというように、平家がダッシュボードから脚を下ろし、座席を元に戻す。俺は靄にけぶった夜道を睨みながら組み立てた推理を語り始めた。
「平家、想像してみてくれ。お前にはどうしてもほしいものがある。金を積んでも買えないものだ。手に入れるには、所有している人間から好意で譲ってもらう以外に方法はない」
「うん」
「――が、相手にどれだけ頼んでも、頑として譲ってくれない。それだけならまだしも、毎日毎日、自分の所有している宝物がいかに素晴らしいかという自慢話を、耳にたこができるほど聞かされるんだ――お前は相手をどう思う?」
「控えめに言って、ぶっ殺してやりたくなる……って、まさか」
怪訝な表情を浮かべた平家に、俺は頷きを返す。
「芸術的な創造力に溢れた人間が、人間的な想像力には欠けているというのは、ありがちな話だ。しかし架空の窓は病める隣人を慰めたいという、健気な動機から生み出されたはずだろう? そういう殊勝な人間が、常に顔を突き合わせている隣人の変化に気付かないなんてことがあり得るか?」
「……」
「怒りってのは、言葉にしなくても伝わる。密室に二人きりなら尚更だ。嫉妬が募るにつれ、ドア側の患者の口数は減っていっただろう。くやしくて、満足な相槌すら返せなかったときもあったかもしれない。それなのに窓側の患者は平然と、望まれぬ問わず語りを続けていたって言うのか? ちょっとありそうもない話だ」
「するってぇと、なにか。窓側の患者はドア側の患者の神経を逆なでするために、わざと架空の窓の話をしていたってことか……?」
「俺は、そう思う。そもそも相手を励ますだけなら、嘘をつく必要はない。どころか入院生活に不公平という波乱を巻き起こす架空の窓なんて、邪魔なだけなんだよ。俺は父方の祖父母の見舞いに行ったとき、大抵談話コーナーを利用した。『他の患者さんのご迷惑にならないように』という建前だったが、実際のところは嫉妬を避けるためだ。ただでさえ退屈な入院生活では、見舞いの人数、回数、手みやげすら、妬みそねみの対象になる」
「あー……」
「誰も自分が不幸なときに、他人の幸せな姿なんて見たくない。そんなとき――病室にたった一つしかない窓を独占したら、何が起こるか。長らく入院生活を送っている、他者への思いやりにあふれているはずの末期患者が、その顛末を予想できなかったって言うのか?」
俺はペットボトルの水を一口飲んで喉を潤わせた。平家は俺の推理を吟味するように天井を向いている。
「いいか、もし自分が先に死ねば、相手は遅かれ早かれ架空の窓の種明かしをされることになるんだぞ。大げさじゃなく、死ぬほど落胆するに決まっているじゃないか。それともなにか、優しい嘘つきへの感謝が失望を上回るとでも? だとしたら窓側の患者は、度しがたい自惚れやだ」
「ドア側の患者の方が、先に死ぬと思ってたんじゃねぇのか?」
「それこそおかしいじゃないか。同じ末期患者であるにもかかわらず、相手が自分より先にくたばるものと頭から決めつけて、上から目線の哀れみを施していたなんて。違和感の源はそこなんだ。窓側の患者の人物像と行動は乖離している。この善人は、およそ他人の恨みを買うようなことしかしていない」
俺は平家に向け、人差し指を立てる。
「ここで重要になるのが、以前窓側の患者が発作を起こしたとき、ドア側の患者が代わりにナースコールを押して一命を取り留めたというエピソードだ」
「それが関係あるのか? 単に『前は押したけど、今は押さなかった』っていう、ドア側の患者の心境の変化を示すエピソードだろ」
「そう、少なくともその時点でドア側の患者に、隣人を見殺しにして窓を独占したいという下心はなかったはずだ。そのときはまだ、そこまで嫉妬が育っていなかったという解釈もできるが……俺はこう思う。病室に架空の窓が現れたのは、まさにこの一件の直後だと。実はドア側の患者よりも先に変化が起きていたのは、窓側の患者のほうだったのさ」
「いやまぁ……臨死体験すると、それまでとは人が変わったようになることがあるとは聞いたことあるけどさ。息を吹き返した窓側の患者に、どんな心境の変化があったってんだ?」
「日々の慰めを架空の窓に求めなければいけなかったということは、おそらく二人とも見舞い客の一人もいなかったことは想像に難くない。そういう状況で、人は無闇な延命を望むものか? しかし、これは海外の話だ。患者がどれだけ死を望もうと、ある問題が立ちはだかる」
平家が得心したようにステアリングを叩いた。
「あ――キリスト教圏に置ける、尊厳死の是非か……!」
キリスト教において、言うまでもなく自殺は大罪だ。しかし治る見込みもない末期患者を、無闇に苦しめ続けるだけの延命に意味はあるのか?
現在においても、一筋縄ではいかない命題であることに違いはない。
「この寓話がいつの時代の、どこの国の話かは正確にはわからないが。少なくとも登場人物達は孤独な末期患者で、しかも自分の命を自由にできない状況に置かれていた。もはや救いは天によって与えられる死だけ。そしてとうとう窓側の患者に、待ち焦がれた瞬間がやってきた」
「発作だな!」
「その通り」
薄れゆく意識の中。窓側の患者が感じたのは苦痛や恐怖よりも、むしろ解放に対する安堵だったのではないだろうか?
「これでようやく楽になれると思ったその瞬間、隣人のナースコールによって無情にも天国の扉は閉ざされてしまった。荒れ狂う胸の内など知るよしもないドア側の患者は、悪気なく口にしたかもしれない。『自分がとっさにナースコールを押せて、本当によかった』――なんてことを」
地獄への道は、善意で舗装されている。
善行は、あくまで善行なのだ。結果がどうあれ、その行い自体を指して悪行と呼ばれることはない。
ナースコールを押した結果、隣人の苦しみを長引かせることになろうとも。優しい嘘をついた結果、隣人を嫉妬に狂わせ殺意を抱かせることになろうとも。それらは等しく善行だ。
「天国の扉が閉ざされた、まさにそのとき。開けてはならない架空の窓が開いたんだよ――地獄に通じる窓が」
「動機は……隣人の善意のお節介に対する復讐」
「そうだ。悪行は声高に糾弾できても、善行はそうじゃない。多くの場合善行の被害者は、存在すら認められない」
「よかれと思ってやったんだから……ってか」
平家は神妙な顔つきで黙り込んだ。
「目には目を、歯には歯を、善行には善行を――それが架空の窓の正体なんだ。実在しない窓を独占し、涼しい顔で来る日も来る日も自慢話を聞かせ続ける。そうして執念深く、隣人の嫉妬の炎に油を注ぎ続けた。すべては決定的瞬間に、自分を見殺しにさせるための布石さ」
次の発作が起きたとき。けっして助けを呼ぼうなんて思わないように。
いつまでも押される気配のないナースコールに、窓側の患者は満足の笑みを浮かべ逝ったことだろう。明朝、カーテンを開いた時の隣人の驚愕と、その後の絶望を思いながら――
「隣人を見殺しにし、なのに望んだものは手に入らず――ドア側の患者は余命を最低の気分で過ごしたことだろう。大したもんだな。そいつは言葉ひとつで『自殺』と『仕返し』という目的を成し遂げたんだから」
「でもよぉ、相手を喜ばせようとするならともかく、陥れるためだけに毎日素敵な嘘をつくなんて……そんな芸当が簡単にできるもんかね?」
「一度見た光景を、なぞるくらいなら造作もない」
首を傾げている平家に、苦笑を返す。
「花は咲き、小鳥が歌い、虹がかかる――あれは発作で死にかけたとき、一瞬覗き見た天国の光景だよ。末期患者なら誰もが無条件に嫉妬する光景さ」
平家は、ため息をついてステアリングに突っ伏した。だが、その横顔は笑っていた。
「はたして窓側の患者は、隣人を操り目的を遂げた執念深い悪党だったのか? それとも独りよがりな善意が徒となり、見殺しにされてしまった間抜けだったのか? どっちのがましなんだろうな〜」
「誤解しないでほしいんだが、我欲から隣人を見殺しにするような輩を弁護するつもりはさらさらないぞ。俺は本質を見ることなく、上辺だけで無闇に何かを神格化したくない。それだけさ」
言いながらひょっとこ面を着け、助手席のドアを開ける。車内に入り込む雨の気配。平家が「いってら〜」と手を振った。
これから我が身に降りかかる惨劇も知らず、のこのこと目前を歩いている今日の獲物。アスファルトを叩く雨音のおかげで尾行に気付かれることもないだろう。
だから悪行はいい――他人の配偶者を寝取ることは、どんなへ理屈をこねようと絶対に善行ではないのだから。俺は心置きなく間男にハンマーを振り下ろせる。
あそこにも、ここにも、そこにも。
病室の壁に限らない。架空の窓は、どこにでも口を開けている。