「をろく、をろーく! ニャーン? ニャニャニャニャーン! ……はぁ、まったく。どこに行ったんですか」
うららかな日曜の午後。
つい先ほどまでその辺りにいたと思ったのに。少し目を離した隙に、をろくはいなくなっていた。もしや、厄介事を押し付けられることを動物の勘で察して逃げたのだろうか?
私が腕を組んでいると、青緑と一緒にテレビを見ていたしのぎさんが苦笑しつつ口を開いた。
「たまーにいなくなるね、をろく。大抵はすぐ帰ってくるけど」
「どこかで猫と遊んでるんじゃねぇのか」
「猫の集会?」
「それだ」
のんきに笑っている二人を横目に、私は一人ため息をつく。
「こそこそ何やってるんですかね、あのニャンポンタンは……」
指を組みながら毒づくと、しのぎさんが腰に抱きついてきた。まるで私を安心させるように、彼女は微笑む。
「大丈夫、をろくはもう消えたりしないよ。だって――ちゃんと帰ってきてくれたもの」
もやもやとした不安を明確に言語化され、肩から力が抜けた。
「……駄目ですね。信じているのに、二度あることは三度ある気がして不安になる」
「それ、をろくの前で言ってやれよ」
「馬鹿が調子に乗るので嫌です」
「もー、素直じゃないんだからー」
◆
からん、と。どこかで石の転がる音がした。
手持ち無沙汰に月のない夜空を仰ぎ、乾いた空気に咳き込む。ということは、かろうじて肺は残っているらしい。
「は……」
下半身の感覚がない――というより、下半身がない。
一面の瓦礫の中。上半身と下半身が泣き別れとなった俺は、この上さらに鉄条網で十字架に磔にされていた。
目の前では、俺に最大の侮辱を与えた男が親しげに微笑んでいる。よりにもよってこの俺を使い、2000年前におっ死んだ詐欺師の処刑を再現するなど、一体どんな当てこすりだ。
死にかけの俺に向けて、柔らかい低音が蛇の狡猾さを乗せて囁いた。
「いい顔になってきたじゃないか、義堂」
「……磔野郎の靴底のガムになってろ、クソ蛇」
「殺すぞ、じゃなくなったあたり、お前は本当に飲み込みが早くて助かる」
クソったれ、と毒づく。
彼我の実力差は歴然。俺はすでに、この男を殺せないことを理解していた。
気がついたとき、俺はここにいて。己の状態も定まらぬまま、馴れ馴れしく話しかけてきた身の程知らずを教育してやろうとした――のだが。
棘の始祖であるはずの《庭師》は、この男にかすり傷一つ負わせることすらできなかった。
悪あがきの余地すら与えられない、完全なる敗北。諦めの悪い俺をたやすく諦めさせる程度に、男は――栂野ゐちは超絶していた。
もっとも奴によれば超絶性は後天的に手に入れた賜物であり、それに依らずとも捨て身の相打ちで俺を倒しきれる予定だったらしいが。俺は、どうあってもこいつに負ける星の下に生まれたらしい。
そういうわけで負け犬の俺は、いけ好かない男のいけ好かない話に付き合わされるという、地味だが精神的にくる拷問の真っ只中にいるのだった。
「18世紀の異端である、痙攣派を知っているか」
「……あ? 知るかよ」
「フランスのサン・メダール教会で、信者達は苦痛・苦行によって奇跡を体現した。苦痛は単なる肉体的苦痛のみならず、不潔・不浄も含むものだ。鞭打ち・殴打など序の口。針金を巻いて眠る、膿や吐瀉物をすする、排泄物を食う、燃えさかる炎に頭を突っ込む――それで病気が治ったり、傷一つ負わなかったという。苦痛と不浄で本当に奇跡が起こるか、試してみないか?」
「平然とやるんだろうな、てめぇなら」
「おや、俺を知っているような物言いだ。一応初対面だというのに」
「たまには鏡を見ろよ、顔に『ろくでなしです』と書いてあるぜ」
「これは手厳しい。まぁ、恐らく奇跡の正体は集団ヒステリーだろう。トランス状態に陥った人間は、とんでもない身体能力を発揮する。手っ取り早く注目を集めたい能なしは、悪趣味に走るしかない。糞を食うのに学はいらないからな。当然のことながら痙攣派は異端視され弾圧された」
栂野はそう言い、肩をすくめた。
金色の目を持つ蛇。
もしもエデンの蛇がいるのなら、ぜひお目にかかりたいと思っていたが――実物を目の前にして、俺はひどく落胆していた。
同じ邪悪のくくりだからといって、必ずしも馬が合うとは限らない。端的に言って、俺はこいつが気に食わない。俺の欠陥とは関係なく、存在そのものが不快なのだ。
そうだとも。自分を踏み台にして輝こうとする存在を、一体誰が愛する?
主人公とそれ以外を分ける、残酷で致命的な格差がばれたが最後。すべての作品の主人公は、その他すべてのキャラクターから私刑に遭うだろう。
端には四肢切断された男と、心臓を引き裂かれた子どもの死体。
名前は――聞いたが忘れた。現在の俺の仲間だという。古馴染みの桜花が死んだところで、なんとも思わなかった俺だ。当然、なんの感慨もわかない。
物語、改心、贖罪。
栂野の語るすべては俺にとって絵空事だった。ただ栂野という存在があまりにも規格外すぎて、疑いを差し挟む余地がないというだけで――
「ついさっきまでは『作者は関係ない』だの『罪も含めて自分で選んだ道』だのと、御大層なことをのたまっていたが――すべてを知った今のお前は? くそったれな作者に、さぞかし唾を吐きかけたくてたまらないんじゃないのか?」
「……ッ」
「だろうと思って、前もって済ませておいたんだ。次元を超えてお前の敵に復讐してやったよ。他の誰でもない――俺が、復讐した。お前に悪役という焼きごてを押しつけた、恥知らずの女衒に。……なぁ、健気な勇者様にご褒美はないのか?」
「恩着せがましい野郎だな、誰も頼んじゃいねえよ」
滴るほどの毒を含んだ色気を振り払おうとすると、栂野は逆に額を触れさせてきた。生きているくせに、死にかけの俺より冷たいとはどういう了見だ。
「愛している。お前だけなんだ、義堂。望むなら奴隷のように傅いてやってもいい。この世界でお前だけが、俺に相応しい」
衒いもないストレートな口説き文句に失笑した。
殺したところで犯したところで――この男が誰かの下位になるなどありえない。心がけの問題などではない。それは厳然たる世界のルールだからだ。
馬鹿にしている、そんな男が――愛などと!
残酷な神を殺してやったから感謝しろ? 神に愛された主人公が!? そうだ――結局特別なくせに。マッチポンプもいいところだ。
俺は誰も愛せない、こいつは誰も愛さない。その二つは似ているようで、本質的にはけっして交わることはない。
吐き気がしたが胃がないので、実際は何も戻すことはできなかった。
「愛ねぇ」
俺は、鼻で笑って見せた。
「……ゲイが女の本質をたやすく見抜けるのは、そこに欲望が宿らねぇからだ。いつだって期待値が人の目を曇らせ、正確な判断を狂わせる」
「なんだって?」
「俺は愛にも、人間にも幻想を抱いていない。だからわかる――だからこそわかる。てめぇは、掛け値なしの、クソだ。親を憎みながら、親に用意された玉座にふんぞり返ってるのがいい証拠だろうが。血は争えないってな。下劣な品性は、パパのお譲りかい?」
栂野の麗容に、はっきりと不快の色が刻まれる。
だがそれは、正確には俺に向けられたものじゃない。恐らく、俺にかつての誰かの面影を重ね合わせて怒っている。どちらにせよ、すかした男の憤る様は見ていて単純に気分がよかった。
「上から目線の救済乞食。この先何度繰り返そうが、てめぇの思い通りになってたまるかよ」
「そうか、残念だ」
言うが早いか、ばつん、と。体が縦に二分割された。
硬い頭蓋もものともしない切断に、正中線から血が溢れ出す。まるで元々左右に分かれていたのを、たった今、体が思い出したかのように。
「おごぉ……ぁ、あ……」
赤く粘る血のフイルム越し。上下にずれていく視界の中で、ずれた男が笑った。いいや――もしかしたら、これこそが栂野ゐちの正しい像なのかもしれない。
この男はずれている。ここにいるのに、ここにいない。俺の比などではなく、存在が誰とも混じり合わない。
――ああ、こいつじゃなくて本当によかったと。俺はほとんど人生で初めて、他人を哀れんだ。
「次こそは受け入れてくれると信じてるよ、義堂」
◆
誰かが頭を撫でている。憐れむように、悼むように。
それと同じくして、微かな揺れと水の匂いを感じた。木材が軋む音。これは、舟……か?
「お、目が覚めた?」
二つの金色が、俺を覗き込んでいた。
格の違いを見せつけてくる純金のそれではない――朝焼けの、優しい金。
なぜだかひどく消耗して、億劫な口を開く。
「……誰だ、お前」
「俺? そうだな……カローン、とでも名乗っておくかな」
カローンと名乗ったそいつは、到底アケローン川の渡守とは思えなかった。馬鹿でかい帽子に遮られてよく見えないが、少なくとも輪郭はシャープで声も若い。
思わずため息をつく。今日は、つくづく金色の瞳に縁があるようだ。
白い靄の中を舟は行く。
行き先も告げぬまま、相変わらず頭に触れる手が温かい。
昔から動物は平気で触れるのに。家族でさえ、抱きしめられれば言いようのない怖気が走った。なのにこの男の体温は、どうして人肌への嫌悪を催させない?
「なんでだ……?」
「んー?」
「お前はどうして、俺に触れられる……」
アレルギー反応と同じだ。それを不快と判断したならば、意志に先んじて棘が反応するはずなのに。
なのに、俺は安らいでいるのだ。
わけがわからねぇ、とつぶやくと。カローンは小さく笑った。嘲りは感じなかった。
「そりゃあ――俺は魔女(人でなし)だから」
「……あ?」
「お天道様に見放された人間も、星は見放さない」
あっけにとられ、思わず吹き出す。
なるほど、道理だ。人でなしの最期を看取るのは、人でなしに決まっている。なぜだか急に肩の荷が下りた気分だった。
「俺は、どこへ行く」
「行くべきところへ」
「ハッ、魔女の釜じゃなくてほっとしたぜ」
「怖い?」
「いいや」
畳の上で死ねるとは思っちゃいなかったが、それにしたって俺のような悪党には相応しくない、あっけにとられるほど穏やかな最期だ。
何かを察したように、カローンが櫂を操りながら笑った。
「……悪い夢は終わったってことさ」
「……」
不意に口中に、冷たいものが現れる。
指で挟んで取り出すと、それは見たこともない異国のコインだった。
ああ、本当に長い夢が終わるのだなと頭の隅で感じながら。俺は目を閉じた。
◆
小舟はアケローン川を行く。