ちゃんよめ

 まるで焼きたてのパンに包まれているような温かい眠り。それを覚ましたのは、突如体にかかった無粋な重みだった。

「起きろー!」
「ぐふぉッ!?」
 いぎたなく惰眠を貪る様が腹に据えかねたのだろう。
 見れば、ワンピースの上からエプロンをつけたりょうちゃんが上に乗っかっていた。お姫様はまるで子亀のように俺にしがみつき、体を左右に揺らしにかかる。
「いつまで寝てんだ、朝飯が冷めるだろ!」
「ふぁーい」
 俺は渡辺蘇芳じゅうななさい、職業はしがないインチキ拝み屋。
 りょうちゃんは……りょうちゃんはなんだったか。小学生? ……のわりにはとんと通学している様子がないけれど。そういえば俺達はいつから一緒に暮らしているんだっけ?
 まぁ、ただ一つ言えることは、りょうちゃんは俺のお嫁さんだということだ。

「いただきまーす」
「いただきます」
 互いに手を合わせて箸を手に取る。
 食卓に並んだのは炊き立てご飯に俺が出張土産として買ってきたあじの開き、具だくさんみそ汁。揉んで漬けるタイプの簡単浅漬け。熟練の主婦からすればお料理一年生の朝飯ってところだろうが、ななさいの手によるものなら上出来だろう。最初はご飯も炊けなかったのに、よくぞここまで……思わず目頭が熱くなってしまう。
 実際りょうちゃんの料理の腕は着々と上達し続けていた。料理に熱を入れすぎるあまり、高級食材をほしがるのが玉に瑕だ。
「うーん、うまい! りょうちゃんの飯はいつ食ってもうまいな」
「そっ、そんなに褒めたって何も出ねぇんだからな!」
 憎まれ口を叩きつつも、ご飯をほおばる顔のにやけ具合は隠せていない。
 ああ、ほんとに今日も素直じゃないんだから。でもそんなところも含めて好きなんですけどね、フヒヒ。

 後片付けを終え、食器をしまっているときにふと思いついた。
 何だかりょうちゃんはいつも似たようなワンピースばかり着ている気がする。しかも寝巻は俺のお古のTシャツというエコ設計だ。大黒柱として、いくらなんでも不甲斐なくないか、俺よ。
「りょうちゃん、たまには洋服でも買いに行こうか」
 そういえば最近どこかに買い物に行った記憶もない。
 たかが知れた稼ぎではお姫様のお召し物はそんなにたくさん買えないが、りょうちゃんは家のことをよくやってくれているし、ご褒美だ。
 しかしりょうちゃんは俺の申し出に首を横に振った。
「いらねぇ。夏物はまだたくさんあるし、寝巻きは蘇芳のお古で十分だ」
「うーん、ならいいんだけど」
 確かに、俺のTシャツでうろうろしているりょうちゃんのかわいらしさは殺人的だけど。皿を片付けた俺は、フローリングに敷かれたラグの上にごろりと寝転がる。
「あーあ、せめて俺がもっと稼げたらなぁ」
 お姫様にはこんな安マンションじゃなくて、天蓋付きのベッドや曲線の優美なソファがある家こそ相応しい。
 まぁ、今の稼ぎではそれこそ夢のお城だ。そんな俺を見て、りょうちゃんは歳に見合わない冷めた様子で鼻を鳴らした。
「ばーか、そんなもん、三日もすりゃ大概飽きるんだよ。それよりおれはル・クルーゼの鍋とバーミックスがほしいぜ。あとヘルシオ!」
「りょうちゃんみたいな経済的なお嫁さんがいる俺は、三国一の幸せもんだよ」
 軽口に対し、期待していたような照れ交じりのツッコミは返らず、りょうちゃんはどこかうつろな顔でテーブルを拭いていた。
「りょうちゃん?」
「……あ、悪い、聞いてなかった。なんだって?」
 もう一度言うのもなんなので、俺は苦笑して首を振る。窓の外で洗濯物が夏の風にのんびりとはためいていた。

 日が傾く前にベランダの洗濯物を取り込んで畳む。
 何ごともない、しかしかけがえのない時間がゆったりと過ぎていく。最後のタオルを畳み終えたとき、俺はふと、視界に引っ掛かるものを感じた。
「……?」
 平和な光景の中に、確かに存在する違和感。
 よくよく考えて、ようやくその正体に至る。こんなにいい天気だというのに、窓の外には洗濯物が一つもない。いや、それどころか人の生活している気配さえ――
 不意に足元から寒気が這い上がってくる。
 そういえば、俺は昨日本当に仕事に行っただろうか? 土産として差し出したあじの開き、なのにそれを買ったときのことがどうしても思い出せない。
 俺は焦燥に駆られて一人玄関に向かった――だが。
「どうした、蘇芳」
 険しい顔をしたりょうちゃんに呼び止められて足が止まる。まるで俺の行動を先読みしたようなタイミングに息をのんだ。
「えっと、せっかくのいい天気だし、散歩でも行こうかなって」
 そう言うと、目に見えてりょうちゃんの顔色が変わった。とことこと近づいてきて、引き留めるように俺のシャツをつかむ。いつも強気な赤い瞳に、今は怯えが滲んでいた。
「や、やめとけよ、こんなくそ暑いのに」
「いや、そろそろトイレットペーパーも切れそうだから、ついでに補充――」
「そんなもん、おれが明日買ってくるから!」
 これではまるで、外に行かれてはまずいことでもあるかのようだ。つかんだドアノブが汗でぬめる。りょうちゃんは俺に何かを隠している。だが一体何を?
「なぁ、りょうちゃん。俺達はいつからここに――」
「嫌だ! 思い出すな!」
 どんと背中がドアにぶつかり、そのまま二人とも玄関に崩れ落ちる。
 りょうちゃんの小さな体は、がたがたと震えていた。その腕が俺を離すまいとするかのようにきつく抱きついてくる。
「言うから、話すから! だから、行くな、どこにも行くな……ッ」
「りょうちゃん?」
「おれは……おれは蘇芳を傷つけたんだ。滅茶苦茶にしたんだ」
「え?」
 唐突な告白に戸惑う俺に、りょうちゃんはまるで懺悔をするように続けた。
「自分勝手な気持ちから、取り返しのつかないことをしたんだ。……そのせいで蘇芳は」
「……」
「ここはお前の思ってる通り、普通の世界じゃない。償いの世界なんだ。ここなら絶対に誰にも蘇芳は傷つけられない。おれにだって傷つけられない。だから――おれがこの姿なのは、自分に課した罰なんだよ」
 そう言い、りょうちゃんは苦しそうにワンピースの胸元をつかんだ。
 りょうちゃんは何の話をしているのだろう。こんな小さな子に、俺をどう傷つけられるというのか? こんなにも俺を大切にしてくれているりょうちゃんが、かつて俺を滅茶苦茶にした――どれも信じられないことばかりだ。しかしりょうちゃんの顔は大層真剣で、茶化すこともできない。
 長い沈黙ののち、俺は膝を折ってりょうちゃんと視線を合わせた。なぜ、もどうしてもなく、ただ一言を伝えるために。
「行かないよ、ここにいる」
「……蘇芳?」
「俺は、りょうちゃんさえいてくれればそれでいいんだ。事情はいまいち飲み込めないし、もしかしたらこの選択は間違ってるのかもしれないけど、それでもここにいるよ。俺自身の意志でな。だから散歩は取りやめだ」
 俺の言葉に、りょうちゃんは心底ほっとした――しかし一抹の寂しさを漂わせた表情でうなずいた。
 きっとりょうちゃんの本当の望みは、この世界とは別のところにあるのだ。ただ今は、時の流れが全てを解決してくれると信じよう。
 いつかりょうちゃんの願いが叶いますように。俺達は見つめあったまま、触れるだけのキスをした。

 しばらくそのまま抱き合った後、りょうちゃんはわずかに涙のにじんだ目を擦って笑顔になった。
「今日のおやつは蘇芳の好きな牛乳寒天だからな!」
 元気な声とともに赤い髪が翻る。夕日にも似た色に思わず強い衝動に駆られ、わけもなく小さな背中に呼びかけようとした。
「――」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもないよ」
 不思議そうに首を傾げたのち、小さな背中がとてとてと台所に走っていった。

(……えつし?)
 いつものように「りょうちゃん」と呼びかけようとした唇はまるで違う形をとり、しかし言葉は声にならなかった。

 ちゃんよめ=(りょう)ちゃん(のお)よめ(さん)

2012/08/26 再up

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