春片設く
いつかの冬春ライフ

 ただでさえ年中やかましい六年生の教室。しかし今朝は更に浮ついた雰囲気だ。
 何しろ今日は授業参観。そりゃみんな平生より落ち着きを失うだろう。今も隣の席の女子が、つんつんと肘をつついてくる。
「ね、七種のお父さん、来るの?」
「父さん? 来るよー」
「うわ〜楽しみ〜、超かっこいいもんね!」
 周囲で「きゃーっ」と黄色い声が上がる。俺は苦笑を返した。まぁ父さんはかっこいいからな、その反応は当然だ。俺も鼻が高いってものよ。
 と、程なく後ろのドアから保護者がぞろぞろと教室へ入ってくる。
 他の保護者にまとわりつかれるのを嫌ったのだろう。一拍遅れて、ドアが開いて閉まる音がした。振り向かなくてもわかる――一瞬で場の空気が変わるから。父さんのご出座に、担任の声が半オクターブ高くなる。
「誰に読んでもらおうかな、それじゃあ――七種くん、お願いします」
「はい」
 俺は後頭部に父の熱い視線を感じながら、教科書を読み始めた。

「冬也ー、帰るよ」
「父さん!」
 手を振る父の元に、俺は笑顔で駆け寄った。今日は授業参観だけで終わりだから、このまま一緒に帰宅できる。
 父さんがいると、そこだけ雲間が切れたように周囲の空気さえ輝き始めるから不思議だ。人形みたいに上品に整った顔、均整の取れた身体、耳に馴染む穏やかなテノール、少し長めに整えた髪はサラサラで、例えるなら――まさしく王子様。初見の人にはお高く止まった印象を与えるだろうけど、実際はただの親馬鹿だ。
 今もほら、溶けそうな笑顔を俺に向けている。
「さっきの冬也、かっこよかったよ~♡ 声も聞き取りやすくて、堂々としてて――」
「へへへ……」
 俺の父さんは若すぎる父親だ。大学を飛び級し、二十歳かそこらで俺を作ったという。母親? 生憎、顔も名前も知らない。
 父さんは行儀作法や勉強には厳格だけど、それ以外は呆れるほど寛容で。俺のやりたいことは大抵なんでもやらせてくれたし、娯楽の類にもいちいち目くじらを立てたりしない。
 所属する少年野球チームの活動は、特に応援してくれた。別に俺はプロを目指しているわけではなく、好きな野球ができればそれでいいのに、わざわざ専属トレーナーまでつけてくれるほどの熱心さだ。父さん自身もプロを目指せ、と思ってるわけではなさそうなのに。いつでも俺の「好き」に全力を尽くしてくれる。
 息子の贔屓目を除いても、めちゃくちゃいい父親だと思う。若くてかっこよくて美人で優しくて頭もいい……友達にも羨ましがられる。そのせいでクラスが変わるたび、シングルの保護者に粉をかけられるのはうんざりするけど。
「七種さん!」
 ほーら、こんな風に。
 うんざりしつつ振り向いた先にいた女は、めかしこみ方が授業参観のそれじゃない。お前は今日我が子の勇姿を見に来たのか、男漁りに来たのかどっちなんだと聞きたくなる。
「どうも、こんにちは」
 父さんは、どんな相手にもあくまで上品に振る舞う。俺も倣って軽く会釈した。
 どう見ても今まさに帰ろうとしてる人達に話しかけてくるやつがあるか? と思うがおくびにも出さない。なにしろほら、俺は父さんの自慢の息子だから、ふふん。
 相手は俺達の時間を浪費していることにはお構いなしに、冬也くんは本当にいい子でだの、それに比べてうちの子がどうだの、べらべらとくだらないことを話し始めた。
 話の接穂として軽率に母親にdisられている『うちの子』は、だいぶ離れたところで渋面を作り、こちらから視線を逸していた。用事以外では特に口を利くこともないやつだが、恥という概念を知っているあたり、母親よりよっぽど理性的だ。心から同情する――親より賢いのも、親を選べないのも。
 父さんは終始微笑んでいるけれど、実はまともに相槌も打っていないことにすら相手は気づけていない。
「七種さんのところと同じで、うちも親一人子一人なんですよ。お互い大変ですよねぇ、独り身だとどうしても限界があるから。この先、進学のこととかもありますし……あの、それで、もしよかったら今度」
 本当に理解不能なんだけど、たった一つの共通点を恃みに、どうして父さんとお近づきになれるなんて思えるんだろう?
 子どもを出しにした下心見え見えの誘いに、それまで黙っていた父さんはにっこり笑って。
「私は子育てが大変だとか苦痛だとか感じたこと、一度もないですね。それでは、失礼します」
 塩を通り越した虚無対応にあっけにとられた相手を起きざりにし、父さんは俺を連れてさっさと踵を返した。俺は今にも噴き出しそうになるのを、車が校門を出るまでどうにか堪えた。

「……お互い大変ですよね、だぁ~? 同レベルなわけねぇだろ雑魚が。我が子の学校で男値踏みする間抜けとお近づきになって、俺達にどんなメリットがあるってんだよ? 真顔で不平等条約持ちかけてんじゃねぇぞ、身の程知らずのドブス!」
 帰りの車の中、父さんは憤慨しながら罵詈雑言をまくし立てていた。
 普段の父さんはぽわぽわで、俺の前では極力汚い言葉遣いをしないけど、実はかなり気が強いし口が悪いのを知っている。特に俺達の間に割り込んでこようとする無礼な輩には、徹底的に容赦がない。
 俺は大笑いしながら父さんにツッコミを入れる。
「いひひひ……と、父さん、口悪すぎ……!」
「だ、だって……好きでもない相手に言い寄られたら悪態もつきたくなるよ! 父さん、せめて小学生時代くらい気楽にすごしてほしかったから公立にしたけど……やっぱり中学受験選択して正解だったな」
「本人に言ってやればよかったのに。二度と寄りつかなくなるよ」
「どんなに腹が立ったって、冬也が間接的に迷惑被るようなことなんてしないよ。あの手の共感ジャンキーは、何も毟れない人間には自然に寄りつかなくなるから大丈夫。だから冬也も――礼儀正しく、笑顔でバッサリ、な?」
「まかせてよ、俺そういうの得意」
「知ってる〜」
 さすが俺の自慢の息子、と自慢の父親が口元を綻ばせる。
 父さんは自宅のガレージに車を入れ、ステアリングに腕を突いて深く息を吐いた。
「大体さぁ……自分の生き甲斐を貶してくるやつと仲良くなれるわけないのに。冬也だって面と向かって野球を貶してくるやつと、仲良くはなれないだろ?」
「わかる」
 自分にとっての無価値は、相手にとっても無価値。自分にとっての苦行は、相手にとっても苦行――そうでなければおかしい。なんの根拠もなく自分をグローバルスタンダードに据え置いて、こっちを異端審問してくる。そんなやつとはやっていられない。
 育児と自分語りを切り離すのは、とても難しい。それはどうしても「無理解な周囲とかわいそうな自分」か「こんなに幸せで素敵な自分」の両極端に行き着いてしまうから。しかし父さんは自己顕示欲のために育児をエンジョイしている振りをしているわけではなく、心から俺との生活を楽しんでいる。愚痴の共有で手っ取り早く距離を詰めようなんて考えの持ち主と、端から噛み合うはずもない。
 俺は父さんのために、一足先に玄関に行ってドアを開けた。
「ありがとー」
「どういたしまして。ま、あーいうのは論外だけどさ。父さん、ほんとに再婚する気ないの? 父さんならたとえ瘤付きだって引く手あまただろ」
「するわけない! というか俺、初婚もしてないから!」
「あ、そうなの? それは初耳」
 自分を産んだ女に興味がなさすぎて、そういやその辺の事情を聞いたこともなかった。
 父さんは玄関の鍵を閉め、俺を抱きしめる。香水なんて付けていないのに、ふんわりと漂ういい匂い。まるで春の夕べみたいな儚く甘い匂いに、俺は、うっとりと目を閉じる。
「……父さんは、冬也だけがいればいいんだ。お前も母親なんていらないだろ?」
「ん〜?」
 父の微笑ましい傲慢さがかわいくて。俺が焦らすためにわざと答えをはぐらかすと。
「――ほしいの、母親」
 途端に目が据わり、声音が温度を下げる。あ、こうなるといろいろまずい。父さん、本気で怒らせると怖いんだ。いや俺を叩いたり怒鳴ったりなんて絶対しないけど、なんというか圧がすごくて。
 俺は慌てて首を振った。
「そんなのいらないって! ただ聞いてみただけ。俺はこのまま――二人がいい」
 俺の上目遣いに安心したように、ふにゃ、と顔を緩めた。
「もう……冬也、変なこと聞くなよぉ。心臓止まるかと思った」
「ごめんね」
「ふへへ……♡」
 本当は、わざと聞いたのだ――「再婚なんてありえない!」と返されて、安心したくて。父さんにそわそわしながら「実は紹介したい人が……」なんて言われたら、俺は『ふわのすけ』(赤ん坊の時から一緒のオバケのぬいぐるみ)と家出する。
 友達の話から総合して、世間一般の父親とは大抵口うるさく偉そうで鬱陶しいか、影が薄い存在。
 父さんは疑いようもなく子煩悩の素晴らしい父親だが、同時にどう考えても『父親』としては異質だった。俺はとっくに反抗期というやつになっていなければおかしいんだけど――父の何もかもが行き届きすぎていて、とてもそんな気にはなれないし、強がりでもなんでもなく、母恋しさなんてものを一度覚えたためしがない。まるで最初から、七種冬也という人間には七種春也という父親しかいなかったみたいに。これはどう考えても尋常ではないだろう。
 まぁ、俺達は俺達だ。世間一般の親子像なんて、なぞる必要はないよな。

 季節は移り変わり。無事中学受験に合格して――十四歳になった春のこと。
 その日の明け方。俺は父さんの夢を見て、荒い息と共に飛び起きたら下着がべとついていた。
「うわ」
 我が身に起こった変化でパニックに――なんてことはない。大体こんなことは保健で習うし、エロいことなんて子ども間の健全な情報共有でみんな知ってる。
 その日の朝。俺は自分が、とうとう大人になったのだと知った。周りの友達より少しばかり遅かった。

 汚れ物と着替えを持って、バスルームに行く。
 なんだかひどく、頭がボーッとする。精通は発熱も伴うなんて聞いてないんだけど。
「……?」
 シャワーを浴びながら、かすかな違和感。
 ……我が家の風呂、こんな感じだったかなぁ? こっち側にバスタブがあったっけ。
 などと首をひねりつつ下着と体をきれいに洗い、髪を乾かしてダイニングに向かう。
「……おはよ、父さん」
 みそ汁の小鍋をかき混ぜている後ろ姿に、おずおずと声をかけた。
 さっきまで俺の夢の中で、絶対に言わないようなことを言って、あられもない姿をさらしていた父さん。その情景はいやにリアルで、思わずつばを飲む。
「おはよう。あれ、冬也。シャワー浴びた?」
「寝汗かいちゃって……」
「そっか」
 いったんは納得したような顔をしたのに、すぐに怪訝そうな顔で近づいてくる。
「冬也? 顔が赤いけど、もしかして具合悪い……?」
 こつん、と額と額が触れ合う。この年頃の父子にしてはやや過剰なスキンシップも、俺達にとってはいつものことだ。長い睫毛。通った鼻筋。見慣れたはずの――俺の父親のはずなのに。
「春也……?」
 俺は親を呼び捨てにするタイプのずさんな教育なんて受けていない。しかし気づけば口からそんな言葉が漏れていた。
 自分で自分の言ったことに驚いていると、父さんの眦に涙が盛り上がり、反射的に口元を押さえた。そんなにショックを与えてしまったのだろうかとうろたえていると、強く抱きすくめられる。
「と……」
「父さん、会いたかった、会いたかったよう……!」
 息子を父と呼び、すがりつく父を前に。
 『僕』は、すべてを思い出していた。


 おいおい泣き出した俺を、冬也――父さんは優しく抱きしめてくれた。
 前回、父さんは処女懐胎に見事に成功した。互いの執念の賜物だ。
 俺はおぎゃあと生まれたときから前世の記憶があって、二人のハッピーライフは続き――しかし生物の宿命として、父さんは病に侵された。
「こればかりは仕方のないことなんだ、はるくん」
 老いてなお美しい父は、少しも不安を感じていないようだった。なにしろ俺達は仕組み化に成功した。必ず会えるのに、別れを惜しむ意味がない。
 父は俺に見守られ、静かに息を引き取った。暖かな、春の日ことだっだ。
 本当はすぐにでも後を追いたかったけれど――俺には来世の強くてニューゲームのためにやるべきことがある。諸々の後始末と来世への下準備を終えたタイミングで、見計らったように俺の心臓は鼓動を止めた。片割れが死ねば遠からず逝くと、最初から魂に書き込まれていたみたいに。互いのいない世界で無駄に長らえる意味がないから、まったく合理的でいいと思う。
 そして今生にて、俺は無事処女懐胎に成功し、父さんは元気に産まれたものの――七種冬也には以前の記憶が引き継がれていなかった。
 正直、かなり悩んだ。俺が原因だったんじゃないか、そのせいで父さんに記憶が引き継がれなかったんじゃないかと。
「それでもいいって思ってた。冬也は紛れもなく父さんだから、いいって……でも、寂しかったよう……このまま何も思い出せないまま成長して、誰かに取られたらって思うと……おかしくなりそうだった」
 少年の――とはいえ、すでに平均を越した身長の父さんの膝枕で、頭をなでなでされながら大人げなく泣く。久しぶりにする甘えん坊、嬉しすぎなんだけど。
 声変わり済みの、しかしバリトンにはまだ少し高い声が優しく俺をなだめてくれた。
「お前が立派な息子ママだったからこそ、僕は安心して子ども時代を過ごせて、思い出すのが遅くなったんだ。春也がちゃんとママを頑張った証拠だよ。えらいね、頑張ったね、はるくん」
「うん……初めてのママ、頑張ったよう♡」
 確かに、これでよかったのかもしれない。俺は生粋の化物だけど、父さんは元々光の男。漆田……いや、今は七種冬也の育成過程には、なんの憂いもない健全な幼少期が必要不可欠だったんだろう。
 そういうシステムだとわかれば、無闇に怯えることはない。次の処女懐胎を、俺は今から安心して迎えられる。その前にまた父さんの息子に生まれられるなんて……幸せすぎか?
「それに記憶がなくたって、僕がはるくん以外と結ばれるなんて考えられないよ。……実はさっき、はるくんの夢を見て精通したんだ。きっとそれがきっかけで、記憶を取り戻せたんだろう」
 突然の耳寄り情報に、がばっと身を起こした。
「えっ、ほんと!? 嬉しい……今夜はお赤飯炊こうかな」
「はるくんは古風だなぁ。お父さん、お赤飯より和風ハンバーグがいい」
「おいしいの作るね、後で買い物行こう♡」
「うん、僕もお手伝いするから二人で作ろう」

 スーパーに行く道すがら、無意識に車道側を歩こうとする父さんの手を引いて歩道側を歩かせる。
「駄目だよ、父さんはまだ子どもなんだからね。大事なお姫様は歩道側!」
「うーん……」
 俺の指摘に父さんは一人頭を抱え、顔を赤くしている。かわいい。今までもかわいかったけど、記憶を取り戻した父さんは珠玉のかわいさだ。
「どうしたの?」
「無茶言うな。記憶が戻ったからって、人格が置き換わったわけじゃない。こっちにははるくんにわがまま言って困らせたり、おねしょの後始末させた記憶もあるんだぞ」
「そんなの当たり前だよ。俺、毎日おむつ替えてたんだよ? 恥ずかしがる必要ないって」
「……夜泣きで迷惑かけたんじゃないか?」
「ぜんぜん。父さん、たんとミルク飲んですやすやねんねして、とってもいい子だったよう。……いや、単に父さんに困らされるのを、俺が楽しんでただけかもしれないけどさ」
「はるくんが嫌な思いしてないなら、よかった」
「毎回おむつ替えたタイミングでさっぱりして、速攻おしっこするのはどうかと思ったけど」
「はるくんもしてただろ」
「じゃあ遺伝だね」
 笑いながら、ふわふわの黒髪を撫で回す。
 すべすべの肌、秀でた目鼻立ち、強雄の予感を湛えながらも、未完成な危うい魅力――もう『そういう目』で見てもいいんだと思うと、嬉しくて仕方ない。
「ふへへ、父さん、いい子いい子……♡」
「はるくん、やめなさい。外だよ」
「だって俺の赤ちゃんなんだよ♡ 俺が息子ママなら、父さんはパパベビーだよう♡ 俺には愛でる権利がある!」
 ことあるごとに冬也に「親馬鹿」と笑われてきたけど、俺はこれでも冬也のまともな父親でいようとかなり忍耐していた。でも記憶を取り戻してくれたのなら、自分の男を愛でるのにもう手加減なんてしない。
 でれでれしながら構い倒していると、とうとう睨まれた。
「春也! 僕は今、思春期真っ只中なんだよ! 魂は器にも引きずられるんだから、少し配慮してくれ。父親といちゃついてるところを、友達にでも見られたら立場がなくなる」
「ご、ごめんなさい……」
 父さんが記憶を取り戻してくれたことが嬉しすぎて、調子に乗りすぎた。久々に叱られて思わず肩をすぼめる。
 あからさまにへこんだ俺に何か思ったのか、父さんはそっと耳元に囁いてきた。
「表ではいい子にしてなさい。長らく寂しい思いをさせたお詫びは、家に帰ってからちゃんとしてあげるから」
「へ……?」
「こんなにかっこよくて性欲強めのはるくんが、はたして浮気してないかどうか。徹底的に取り調べてやるからなぁ?」
 今まではしなかった邪悪な笑い方で、指の腹を撫でられる。
「わかったか、はるくん」
「は、はひ……♡」

 愛しのピカピカ光の冬也くんから、愛しの暗黒死神男へ。
 まともを今日限り店じまいして、俺はその手をしっかりと握り返した。

2023/2/03 LOG収納

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