sinister 冥探偵の腕
冬春/十年前の分岐

「ただいまー」
 初冬の午後。
 高校から真っ直ぐに帰宅し、玄関先にまで漂うシナモンとバターの香りを胸いっぱいに吸い込む。俺にとっての幸せの象徴。
「おかえり」
 居間で動画の編集作業をしていた父さんが、PC用の眼鏡を外して微笑んだ。
 共に暮らし始めてから徐々に依頼を減らしていった父さんは、俺の高校入学と同時に本業を廃業した。紅玉の出回る季節は紹介のみで法外な値段のアップルパイを焼き、それ以外の通年はオカルト系配信者『ナツキ』として週に二度ほど動画を上げている。まさに理想的なセミリタイア人生だ。
 この顔面にこの声、人気が出ないはずもなく……。配信用の陽キャのナツキさんが繰り広げる考察や朗読で、主に女性中心に人気を博していた。父さんの好きなことはなんでもやらせてやりたいけど、俺は少しだけやきもきする日々を過ごしている。
 うがい手洗いを済ませてダイニングを覗くと、予想通りケーキクーラーにアップルパイが乗っていた。
「やった、アップルパイ!」
「そっちは失敗したやつだから、明日平家に押し付けるつもりだ。はるくんはお皿にのってる方を食べなさい」
「ええ……失敗したほうあげるの?」
「当たり前だろう。一番出来がいいのは、常にはるくんのものだ。どうせ馬鹿舌ヘボ探偵には、焼成の違いなんてわかりゃしない」
「まーたそういうこと言う……」
 思わず、くすりと笑う。この時期、居間に二人でいるとどうしても、あの日のことを思い出してしまって。
「はるくん、どうした?」
「ちょっとね、昔のこと思い出してたよ」

「お父さん……ですか?」

 追い返す
▶家に上げる

 俺の問いかけに、父は無言で横のスペースを開け。うつむきがちに、ぼそぼそと言った。
「……とりあえず、寒いから中に入って」
 初めて聞く父の声は、かすれたバリトン。コンディションが整っていたら、さらにいい声だったろう。
「お邪魔します……」
 埃まみれだが、気後れするほど立派な三和土に靴を揃える。
 不躾にならないよう辺りをじろじろ見るのはどうにか我慢しながら、父の後について行った。踏み出した床が暖かくてびっくりする。
 長い廊下をちらちらと、背後の俺がついてきているか振り返りながら長身の父は尋ねる。
「きょうは……今日は、電車でここまで来たのか?」
「歩いて来た」
「あるいて」
 片言で呆然と繰り返す。信じられない、と言うように。
「どうぞ、散らかってるけど……」
 ――通された居間は謙遜ではなく、洒落にならないほど散らかっていた。
 雑多に積まれた本に酒瓶に空き缶。脱ぎ捨てられたままの服。ただ、家で料理はしないのだろう。生ゴミの臭いはしなかった。
 歩を進めるたびに裸足が何かを踏んづけるらしく、遙か上方から「痛っ」と声が上がる。
 父はソファから服の小山をどかして、俺が座れるスペースを作った。
「えっ……と、ここに座って。今何か……持ってくるから」
 いそいそとどこかに向かった父を見送り、俺はやや緊張しつつソファに収まる。
 しばらくして。父は、投げられたボールを見つけそこねた大型犬みたいな顔で戻ってきた。
「酒しかなかった……」
「お水でいいよ」
 別にお茶を飲みにきたわけじゃない。父に会いに来たのだ。
 俺が気を利かせてそう言うと、父はひどくショックを受けたような顔をした。
「こんな寒い日に水なんて! コンビニで何か買ってくる。すぐに戻るから、ちょっと待っててくれ!」
 慌ただしく財布と携帯だけを持ち、黒いコートを引っかけたところで振り返る。
「誰も来ないとは思うが――誰が来ても出ちゃ駄目だぞ」
「うん」
 バタン、と玄関のドアが閉まり。一人家に残された俺は、埃っぽい空気を吸い込む。
 ――お父さんの家だ。滅茶苦茶に散らかってはいるが、我が家とは比べものにならないほど広く贅沢な家。
 肘掛けにかけられたシャツを手に取り、顔を埋める。くしゃくしゃのシャツからは、甘さの少ない落ち着いた香水の香りがした。男の人の匂い――お父さんの匂い。
 意味もなく、被衣のようにシャツを頭から被って、辺りを見回す。父が戻るまでに少しその辺を片付けておいた方がいいのだろうか、勝手に触ったら怒られるか?
「あ……」
 巡らせた視線が、書類ばさみからはみ出した一枚の写真を捉えた。
 子どもは肌色に敏感だ。これは、えっちな写真かもしれない。父の秘密だ。
 ドキドキしながら、書類ばさみからはみ出した写真を引き抜く。
 それは確かに、裸の女の写真だった――ただし、生きてはいなかったが。
 まだ少女にも見える若い女が、うつ伏せで床に手足を投げ出している。絞殺されたのだろう。首には細紐がまとわりついていた。
 悼ましいとか、怖いという気持ちすら起こらず、しげしげと見つめてしまう。なぜ父の家に死体の写真が?
 少しその辺をあさっただけでも、類する写真がたくさんあった。それも死体だけではない。明らかにこの世のものではないものが写り込んだ、心霊写真までもが紛れていた。
 なんなんだろう、これは。父とどんな関係が? 嫌悪ではない、ただただ不思議で。
 どのくらいの時間、俺は写真を眺めていたのだろう。遠くから慌ただしく鍵の開く音がしたので、シャツを脱ぎ、写真を元に戻す。
 走って帰ってきたのだろう。肩で息をする父の白い顔に血の気が差していた。全体、どれだけ買い込んだのか。両腕にパンパンのレジ袋を下げている。
「ああ、よかった、まだいた……」
「勝手に帰ったりしないよ……おかえりなさい」
「ただいま……」
 俺の出迎えに、父は感極まったように顔をしかめる。
 ローテーブルの上の本だのなんだのを躊躇いなく床に落として場所を空け、買ってきたものを並べ始めた。
 ホットスナック、デザート、菓子パン、ジュースにチョコにポテトチップス――なんだか、子どもの喜びそうなものを目につく限り買ってきた感じだ。
「これ……」
「ありがとう」
 差し出されたペットボトルの蓋に苦戦していると、横合いから手が伸びて、軽々と開けてくれた。
 父から手渡されると、なんの変哲もないココアも特別な味がする。
 温かな糖分に満たされて、情けなく空き腹が鳴る。朝から歩き通しの上、もう昼時なのに何も食べていなかった。
 父の顔が、ふ、と緩む。
「頑張って歩いたから、お腹すいただろう。ほら、好きなの食べて」
「うん」
 大量の食べ物飲み物に戸惑いつつ中華まんの袋を手にしたのを見届けて、父も中華まんを手に取る。ミラー効果。
「いただきます」
「いただきます」
 散らかった薄暗い部屋の中、初めて会った父親と二人でソファにかけ、黙々と中華まんを食べる。かなりシュールな光景。
「よくよく考えたら、ココアと中華まんなんて合わないよな。ああくそ、駄目だ。さっきからずっと混乱してる……」
 自分を責めるように頭を振る。家に上がらせてもらえてから不思議と俺が落ち着いていられたのは、父が目に見えて慌てているせいだ。自分より慌てている人がいると冷静になれる。
「そんなことないよ、おいしいよ。買ってくれてありがとう」
「はるくんは、いい子だな……」
 はるくん。頭の中で、ずっと俺をそう呼んでいたのだろう。言葉にならない感情が胸の奥を柔くくすぐる。
 強い男は健啖だ。父は三口ほどで中華まんを食べ終えてしまった。
「こういうの久しぶりに食べたけど、おいしいな」
「うん」
「はるくんと食べると、すごくおいしく感じる」
 何気ない言葉に、ほか、と胸が温まる。
 俺は丁寧に包み紙を畳んで手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「まだたくさんあるよ、遠慮しないで」
「でももう、お腹いっぱい……」
「そうか……お腹小さいもんな……」
 父は、どこか途方に暮れたように言う。
 食べ終えてしまうと、途端に二人の間に沈黙が流れ――俺はもぞもぞ、と居住まいを正す。お互いの出方をうかがっている気配。俺は意を決して顔を上げた。
「あのね」
「うん」
「お父さん、殺し屋なの……?」
 缶コーヒーを飲んでいた父は、俺の質問に激しくむせた。ティッシュで口元を拭いながら涙目になる。
「なんで?」
「写真、見たから……」
 そのあたりを指さす。死体写真は、今はもう机の上にあったゴミの地層に埋もれていた。いずれ化石燃料になるのかもしれない。
 俺は別に、父が人殺しでも構わなかった。むしろ俺達が離れ離れになったことに合理的な説明がつくから。
 しかし俺の問いかけに、父は顔を覆って震えだした。
「ああああ、僕は……なんて畜生なんだ! はるくんに、そんな汚らわしいものを見せるなんて……!」
「! 勝手に見てごめんなさい……」
 縮こまった俺に、父は泣きそうな顔で勢いよく顔を上げる。
「ちがう、ちがうよ、はるくんに怒ってるんじゃない。ただ、自分にがっかりしてるだけで――」
 どうにかこうにか必死に自分を宥めてから、父は続けた。
「お父さん、殺し屋じゃないよ。写真は確かに、仕事の資料ではあるけど……」
 そこまで言い、なぜか自嘲気味に笑う。
「でも、殺し屋みたいなものかもしれない。既に死んだ人間の墓を暴いて、もう一度殺すんだから」
「……?」
「お父さん、探偵やってるんだ」
「探偵? かっこいい!」
 まさか探偵だとは。
 図書館で借りたシャーロック・ホームズとか少年探偵団シリーズを思い出す。
 目を輝かせる俺に、しかし父は浮かない顔のままで。
「……ろくでもない仕事だよ。たまたま向いていたから続けていられるだけさ。あとは……」
 遠い目になる。
「僕の夢は、まっとうな努力じゃ絶対叶わないから。すがれるなら藁にでもオカルトにでもすがるしかない。どこまでも自分のためなんだ。はるくんの考えているようなヒーローじゃない……」
「でも……お父さんのおかげで助かる人もいるんだよね?」
「僕の顧客なんて、地獄の沙汰も金次第のろくでなしばっかりだよ……」
 どうやら父は心底うんざりしているようだ。荒れ果てた生活からもそれは窺える。
「僕のことはいいから。それよりはるくんのことを聞きたいな。教えて」
 促されるまま、思いつくままに話した。
 家のこと、学校のこと、塾のこと。好きなテレビ、嫌いな同級生のこと。父は真剣に聞いてくれた。
 ほとんどの人間は自分の意見を聞かせたいばかりで、人の話に耳を傾ける才能を持った人は稀有だ。しかし父には、紛れもなく聞く才能があった。
 適切な相槌、的確な質問、惜しみない共感。夢中で話し続ける間に瞬く間に時間は過ぎていった。

 不意にソファから腰を上げ、父がカーテンを開ける。埃まみれの部屋に夕日が差し込んだ。
「……はるくん、お母さんが心配するからそろそろ帰ったほうがいい。道順を教えるから、帰りは電車に乗りなさい」
 財布から札を取り出す父の、よれたシャツを掴む。
「お父さん、お母さんと仲直りして。みんなで一緒に暮らそう? 僕からもお願いするから……!」
 短い時間だがわかったことがある。
 父は、俺を嫌っているわけではない。家族への愛情がないわけでもない。むしろ、その胸中は暖かな慈しみに満ちていた。だからわかり合えるはずだ、どんなすれ違いがあったにしても――
 しかし俺の言葉にこそ、父は深く傷つけられたような顔をした。
「……無理だよ、復縁はありえない。でもそれは僕のせいなんだ、すべて僕が悪い」
「……どうして? 浮気したの?」
「浮気よりもっと悪いよ。お母さん以外の人を、本気で愛してしまったんだ」
 予想もしていなかった答えに、がん、と頭を殴られたような気がした。
 猛烈な嫉妬に駆られ、腰にしがみつく。
「はる……」
 制御不能の、狂おしいほどの愛おしさ。どうして今まで、一緒にいなくて平気で生きてこられたのかがわからない。
「なんで? お父さん、僕のお父さんだよ。僕のなのに……!」
「そうだよ、春也。はるくんだけのお父さんだ……!」
 父さんは膝を折り、力強く俺を抱きしめてきた。
 くやしくて、悲しくて、父の胸をぽこぽこと叩く。しかし結局最後は、ぎゅっとしがみついた。
「お父さんの好きな人、誰? どこにいるの?」
 殺意を無邪気で包んで問いかける。
 玄関と居間しか見ていないが、この家の中に女の気配はない。見つけ出して殺してやろうかと、半ば本気で企んでいると冷たい指で頬を包み込まれた。
「ここにいる」
「え?」
「僕の一番好きな人は春也――お前だよ」
 都合のいい妄想かと思った。
「はるくんがこの世に生まれたとき、お母さんを追い越して、はるくんが僕の一番になってしまったんだ」
「……いけないの? 家族が大事なの、普通だよ」
 父が息子を愛して何が悪いのか。むしろ子どもよりも配偶者に重きを置くほうが、親としてはどうかしている。
 隈を浮かせた美しい目が潤む。
「僕のは普通じゃない。こんな風に我が子を愛するのは……許されることじゃないよ」
 こんな風に、とはなんだ。どこの誰に許される必要があるというのか。母か? 世間か? それとも神か?
 そんなもの――
「僕が許すよ。僕も、お父さん好きだもん。一番好き。きれいでかっこよくて……優しいもん。お父さん好きだもん……!」
 俺を抱く腕に力がこもる。成熟した雄が、必死に凶暴な衝動をこらえる気配。効いている、という確信を得て更に追い込む。
「駄目でも一緒にいて……もう離れ離れ、やだ……いい子になるから、言う事聞くから、一緒にいて」
 シャツが涙で濡れ、父の、低い体温がまぶた越しに染み渡る。
 父さんは飽きることなく俺の頭を撫で、その後静かに切り出した。
「……少しだけ、僕に時間をくれないか」
「やだぁ……」
「春也、辛抱するからこそ夢は叶うんだ。すぐに手に入る物なんて、どうせすぐに奪われる。せっかく両思いになれたのに。僕は、はるくんを二度も取り上げられるなんて絶対に嫌だ」
「でも……」
 優しい、しかし有無を言わせない眼差しが俺を諭す。
「はるくんが一番大切だ。他は何もいらない。今日改めてわかった――お前の替わりなんか、どこにもいやしない」
 きゅん、とへそのあたりが疼く。
 そして唐突に理解する。この雄はずっと前から俺のもので……そして俺もまた、生まれたときからこの雄のものだったのだと。
「はるくんの夢は必ず叶うよ、いいや、僕が叶えてみせる。親は子の幸せのために――己を犠牲にすべきなんだから。はるくんが僕とともにあることを望むのなら」
 鋭い瞳が鈍い光を放ちながら細められる。恐怖ではなく、官能に背筋が震えた。
「お父さんとお母さんは力を合わせて、それを叶えるべきだ」
 俺は涙を拭い、抱きついた。次に会うときまで、この形と体温と匂いを、ちゃんと覚えていられるように。
「我慢すれば、一緒にいられるようになる?」
「ああ、そうだよ。僕は絶対裏切らない、必ず迎えに行くよ。一緒にいられるようになったら、キャッチボールもしよう。お父さん、昔四番バッターだったんだ」
「うん……!」

 父に連れられ、勝手口から裏通りに出る。
「気をつけて帰りなさい。今日のことは二人だけの秘密だ。メモとカイロは、家に着くまでに捨てること、わかったね?」
「うん」
 駅までの道順を書いたメモとカイロと電車賃を渡し、頭を撫でた。大きな手が両頬を包み込む。
「はるくん、辛くても寂しくても、僕を信じて待っていてくれ」

 言いつけ通り、最寄り駅に着いた時点でメモとカイロは捨てた。
 母には「一日図書館にいた」と嘘をつき、いつも通り夕飯を食べて風呂に入り、床について。
 ――その夜、俺は誰に教わるまでもなく、初めて自慰をした。

 それからしばらく、父からのアクションはなかった。
 あまりの音沙汰のなさに「あれは息子を追い返すための体のいい嘘だったのでは?」と挫けそうになることもあった。その度に信じてくれという、父の真剣な眼差しを思い出し己を鼓舞した。俺が父を信じなくてどうするのだ。
 あれから一年。俺は学年が上がり、父からは相変わらずなんの音沙汰もないまま、再び冬が来て。
 ――寒の底だった、母が死んだのは。

 仕事の帰り、歩道橋の下に倒れているのを発見されたのだという。母のパンプスのヒールは折れていた。足を踏み外しての、不幸な転落事故。
 天涯孤独となった俺は呆然と時を過ごした。周囲も腫れ物に触れるがごとく接してくる。それはそうだろう。
 俺はただうつむいて、一心に念じていた――俺の救いが来てくれることを。
 お父さん、助けて……早くきて……。
 通夜の晩。借家に慌ただしく人々が出入りする中。
 こつ、と革靴の音が響いた。ごく小さなその音に、なぜだか辺りが静まりかえる。
 颯爽、という二文字がふさわしい。こんな場にあっても、誰もが見とれて息を飲まずにはいられない立ち姿。
 上質な喪服をまとい、無造作に伸ばしっぱなしだった髪は短く整えられ、やさぐれた不摂生の匂いはまったくない。どこからどう見ても、完璧な紳士。
「春也」
 微笑んで広げられた腕の中に、俺は靴下のまま泣きながら飛び込んだ。
「お父さん……おとうさん……!」
 この形、匂い、暖かさ。何もかもが待ち焦がれていた俺の男。
 そして歓喜と安堵の中――まるで靴の中に入った砂利のような違和感。俺を抱きしめる左腕の、まるで無機物のような感触に、はっとして顔を上げる。父が苦く笑っていた。
「ごめんな、はるくん。約束したのに。キャッチボール、もうできないんだ」
 ――再会した父には、左腕がなかった。

 そこから先、気味が悪いほどトントン拍子に事は進んだ。
 事故で母親を失うという不幸に見舞われた子どもは、生き別れの父親に引き取られ、一緒に暮らせるようになりましたとさ。誰もが涙をそそられる、感動ドラマ。
 ――不幸な事故。
 目撃者が誰もいなければ、不審を示す証拠が一つもなければ、検証すべき遺体が荼毘に付され失われてしまえば、それは"不幸な事故"なのだ。
 奇しくも父もまた、仕事中の事故で腕をなくしたのだという。具体的に何があったのかは、ついぞ話してもらえなかったが。
 替えの利かない才能の持ち主が、それでも身体の一部を欠損するくらいの案件だ。相応の――莫大な対価を得たのだろう。でなければそんな厄い仕事、父が引き受ける理由がない。
 猿の手は運命すら捻じ曲げて、三つの願いを叶える。ならばさて、冥探偵の左腕には、誰にとってのどれくらいの価値があったのだろう? オカルトにすがらなければ叶わない奇跡すら可能にする、法外な価値が?
 俺は父の、消えた腕の行方を思った。

 アップルパイを切り分け、二人分のお茶を淹れる。
「お味はどうかな?」
「最高〜」
 顔をほころばせる俺に、父も微笑む。
 と、伸ばされた指先が俺の口元についたパイのかけらを摘まんだ。
「ほら、ついてる。はるくんはもうお兄さんなのに、子どもみたいだな」
 笑う父の、長い指をかけらごと咥え、挑発するように目を細める。
「子どもはこんなことしないでしょ」
「まったく……どうしてこんな悪い子になったのやら」
「そりゃあ血筋のせいだよ、きっと」
「はるくんお前……僕以外にこんなことしてないだろうな……?」
「するわけないだろ! 父さんはすーぐ焼きもち焼いて……もう」
 とにかく今夜は、甘いアップルパイのお礼をたっぷりしよう。
 たった一度の逢瀬の後。"誰か"か"何か"かは知らないが、法外な取引をして父は俺を手に入れた。
 体の不自由な父とその息子が、普通より距離が近くとも、誰も疑わない。むしろよくできた孝行息子と、世間はのんきに讃えるだろう。固く閉ざされた扉の内側で、何が行われているかも知らずに。
「父さん」
「なんだ、はるくん」
「父さんのこと――俺がずっと守るから」
 俺の頭に頭をもたせかけ、心からの満足を込めて、父が低く笑う。
「ああ、春也、はるくん――僕だけの王子様」
 水飴のような粘度の愛に肺まで埋め尽くされて窒息する。それがたまらなく心地良い。
 出来すぎている、何もかも。母は、なぜ死んだのか?
 我が子の幸せを願うなら、親は自分の身を犠牲にすべきだ。ある意味では、確かにそうなのだろう。
 しかしその犠牲は本当に――母の自由意志で払われたのか?
 内側から湧き上がる疑いの声。
 俺はそれを無視するのではなく、認めた上で一蹴した。
 三角関係なんて、そもそもこの世に存在しないんだ。完全な二人は、どこをどうひねろうが奇数になどなりはしない。
 俺達父子に、間違ったタイミングは存在しない。どこで何を選択し、どんな筋道を辿ろうが、結局は同じ結論に達するのだから。

 一つだけ言える確かなこと。
 俺達は――とても幸せだ。

2022/11/24 LOG収納

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