First Bite
たかすお/蘇芳のとある無念と、わからせ叔父さん

「ふんふんふーん」
 鼻歌を歌いながら、沓脱ぎから庭に出て洗濯物を取り込む。
 変な話、利き腕をなくしてから以前より積極的にお手伝いをするようになった。家事はヤシロさんが完璧にしてくれているので正直俺が出る幕はないのだが、頼んで簡単な仕事をわけてもらっている。俺が手を出すほうが効率が悪いとわかっているので、これはただのわがままだ。
 尊也さんもヤシロさんも「そんなことしなくていい」と言うけれど、「以前のようにとは行かないまでも、なんでもできるようになっておきたいんです」と頼むと、俺の好きにさせてくれた。ま、これも修行ってことで。
 時間を掛けて籠にタオルを取り込みながら、ちらりと視線を上げる。
「なんか、やたらもやってるなぁ……」
 一体、この霧はどこから湧いてくるのだろう。ようやく二時を過ぎたところだというのに、すでに茂狩山の輪郭すら見えない。
 昼から濃霧に注意なんて、天気予報のアプリでは出ていなかったはずだけど。これはあと数時間もすれば1m先の視界も見えなくなるぞ。
「茂狩村は静岡だった……?」
 幸い今日は休日で尊也さんは家にいるので、この濃霧で事故に遭う心配はない。ヤシロさんにも「今日はもう庭仕事はよしたほうがいいですよ」と言っておこう。
「……ん?」
 たっぷり時間を掛けて洗濯物を取り込み終え、一息ついていたとき。垣根の扉を開けて、ぽとぽとと頼りない足音が庭に入ってきた。霧が満ち始めた庭の中、互いの黒い目が合う。
 男の子――まだ小学校低学年くらいか。そいつは俺の姿を認めると、不安げに立ち止まった。まるでそこに誰かいるとは、想像もしていなかったというように。
 無闇に警戒させないよう、しゃがんで目線を合わせる。
「僕、どした。迷子か? 名前は言える?」
 俺だって茂狩村のすべての家に通じているわけじゃないけど。近所にこんな子いたっけかな?
 問いかけに一瞬ぽかんとした後、子どもは逆に、きっと俺を睨み付けてくる。思いのほか、目力が強い。
「迷子じゃないよ、ここ、僕の家だもん。お兄さん、誰? お母さんは? お兄ちゃんはどこ?」
「……はぁ?」
 何を言ってるんだ、こいつは。
 勝手に入ってきておいて、ここは我が家だと言い張る謎の迷子。こいつオーメンとかエスターとか、危険な遊び的なサムシングなのでは……。
 俺が眉根を寄せたまま答えずにいると、不安が限界を迎えたんだろう。見る間に子どもの目が潤み始めた。
「……ふ、え……おかあさーん、おにいちゃーん……どこーどこー!」
「えええ……泣くなよぉ」
 泣く子と地頭には勝てぬ。どうしたもんか、と困惑していると。
 この騒ぎを聞きつけたのだろう。廊下の奥から尊也さんが顔を出した。
「どうかしたのか、蘇芳くん――」
 その途端、泣いていた子どもが、ぱっと顔を輝かせた。
「――お兄ちゃん!」
 子どもは俺の横をすり抜けて、沓脱ぎで靴を脱ぐのももどかしく尊也さんにしがみつく。尊也さんはちょっと驚きながらも、その小さな体を受け止めた。
「あっ、ちょっ、お前――!」
「いや――いいんだ、大丈夫だよ」
 さすがに出過ぎた行いを咎めようとすると、当の尊也さんがそれを制した。
 と、子どもは自分から抱きついておきながらしげしげと尊也さんの麗容を見つめ、首を傾げる。何か、今更重大な間違いに気付いたように。
「……お兄ちゃんじゃない。お兄ちゃん、お父さんの他にも兄弟いた……?」
 顔に?マークを浮かべて問いかける子どもに、尊也さんは相好を崩す。
「蘇芳くん」
「はい?」
「なあに?」
 俺と子どもの返事が見事にハモる。顔を見合わせる俺達に、なぜだか尊也さんだけが訳知り顔で、くすくす笑って。
「私だけは見間違えないよ。彼は蘇芳くんだ――昔の、初めて私と会ったばかりの7歳の蘇芳くんさ」
「え……はぁあ!?」
 まじまじと子どもの顔を見やる。
 これが俺? 7歳当時の、尊也さんをお兄ちゃんと呼んでいた頃の俺? え……軽くショックなんだけど。もっと利発なお子さんのはずが、こんな間抜け面してた……?
「いや、でも、なんで昔の俺がここに……!?」
「さぁ、それはわからないにしても……」
 当時の苦い記憶が甦ったのだろう。尊也さんが痛みを堪えるような表情になる。
「そうか、あの頃の君はこんなに小さかったんだな……」
「小さくないよ。身長、前から5番目だもん!」
「前から5番目は十分チビだろ」
「むー……」
 俺に混ぜっかえされて、ぷくっと頬を膨らませる。「ごめんごめん」と代わりに詫びる尊也さんの目が優しい。
「初めまして、蘇芳くん。おじさんは蘇芳くんのお兄ちゃんじゃないけど――君の味方だよ。何も心配いらないからね」
 渡辺蘇芳に対して大江尊也の顔面が"効く"ことをよく理解している叔父は、安心させるように微笑んで子どもの頭を撫でる。
 そして見事に功を奏した。俺に対しては不信感と警戒心を露わにしていたくせに、尊也さんには一切の疑いを差し挟まず、頬を染めてこくんと頷いてみせたもんだ。
 いやほんとお前さぁそういうところがさぁ……我ながら現金すぎて嫌になる。
「お母さんかお兄ちゃんが帰ってくるまで、おじさんと遊んで待っていようか」
「いいの?」
「もちろんだよ、だってここは君の家だろう? 誰に遠慮する必要もない」
 魅惑的な提案にキラキラした目で「うん」と頷く。こんなにチョロくてよく生きてこられたな俺……。
「奥水、この子に何かおやつをあげてくれ」
 尊也さんは立ち上がり、さっきからこちらを覗き込みながら「はわわ……」と目を輝かせていたメイドガイに呼びかけた。ヤシロさんは「Dig in!」と言われた犬のように、ぱたぱたと近寄ってくる。
「わあ、かわいいお客様! かしこまりましたのですよー」
「メイドさんだー!?」
「はい、メイドさんなのですよー。にゅふふ♡」
 メイドガイに興味津々の子どもを、尊也さんが笑いながら軽々と抱き上げる。
「おいで、蘇芳くん。あっちでたくさんお話ししよう」
「うん」
 あ、と俺が小さく声を上げたことにも気付かず。尊也さんは幼い俺と共に居間に行ってしまう。
 叔父に悪気がなかったのはわかっている。
 けれど、ここにいる高校生の渡辺蘇芳はその場に置き去りにされたと――そう感じた瞬間の寂しさを、どうしても誤魔化せなかった。

「おじさんは優しいね、お兄ちゃんと一緒だねぇ……」
 おやつを食べながら、7歳の俺がしみじみとうなずく。
 尊也さんは父親とお兄ちゃんの間にいる兄弟、ということでこのちびすけは勝手に納得しているらしい。尊也さんもあえてその誤解を解こうとはしなかった。
 と、子どもが尊也さんの顔をまじまじと見つめる。
「どうかしたかい?」
「おじさん、新しいお父さんになってもいいよ? お母さん、おっぱい小さいけど優しくてかわいいよ?」
 ……なんつーことを言い出すんだこいつは。
 子ども特有の突拍子もない物言いに、尊也さんは笑いを堪えきれないといった様子で口元を隠した。ああ、その優しい顔ったら。
「……?」
 一瞬今の会話の中で何かが引っかかったが、俺がその正体を探ろうとする前に尊也さんが口を開いた。
「それは光栄だけど、君のお兄ちゃんはパパになっちゃ駄目なのかい?」
「だめー、お兄ちゃん僕のお兄ちゃんだもん! パパじゃないよ」
「蘇芳くんは、お兄ちゃんのことが好きなんだね」
「好きー。お兄ちゃんも、年取ればおじさんみたいになる……?」
「うん、きっとなるよ。蘇芳くん、お兄ちゃんがおじさんになったら嫌いになるかな?」
「そんなことないよ、おじさんかっこいいもん。ふひひ、楽しみだなぁ……」
 7歳の俺は尊也さんを見上げて蕩けそうな顔で笑い、叔父は拙い話にどこまでも優しく相槌を打つ。
 俺の勝手な推測では、尊也さんはあまり子どもが得意じゃないと思っていた。でも今はごく自然に、まるで本物の父親のように振る舞っている。
「ほら、ついてるよ」
 汚れた口元をハンカチで拭ってやる仕草は手慣れていて。されるがままにしながら、7歳の俺が眉を下げる。
「んむ……ごめんなさい」
「いいよ、ゆっくり食べなさい」
 至れり尽くせりだ――俺の目の前で。それは俺じゃないのに。
 ヤシロさんが淹れてくれたお茶を手持ち無沙汰に飲もうとして、やめた。
 一体――さっきから何を見せつけられているんだろう。年上の男からの慈しみ。実の父からも、当時の叔父からも、俺がけっして与えてもらえなかったものを、惜しみなく与えられる子どもの姿に胃の腑がじりじり焼ける。
 いや、俺は尊也さんを恨んだりしていない。持てるすべてを分かち合い、因縁が解決した今。俺がこの人を恨むなんてあり得ない。
 あの頃、彼は今の俺と変わらない歳で、憎い男と愛する女の間に生まれた子どもへの複雑な感情に折り合いなんて付けられず。すべては巡り合わせで、仕方がなかったことなのだ。
 ……仕方がなかった、そう自分に言い聞かせて唇を噛む。
 けど――駄目だ、これはとても見ていられない。かといって醜く嫉妬する姿も叔父には見せたくはない。俺にだってプライドはある。7歳の子どもと同列になるなんて、ごめんだ。
 気付かれないよう静かに席を立つ。ちびすけの相手に夢中で、こちらを見てもいない尊也さんは何も言わない。
 きゃっきゃ、と笑う声と楽しそうな相槌が廊下にまで追いかけてきて、耳を塞ぎたくなった。

 台所ではヤシロさんが忙しなく動き回っている。メイドガイは心持ち、いつもよりはりきりモードだ。
「おゆはん、何がいいですかねー。子どもさんの好きそうなメニューにしたほうがいいでしょうか?」
「そっすね……」
 素っ気ない反応に振り返り、あからさまにへこんでいる俺を見つけ、ヤシロさんは途端におろおろとし始める。
 申し訳なくて、わざとおどけた。
「いやー、俺、功夫足りてないんで。相手子どもとは言え、NTR耐性ないからきっついなー」
「蘇芳様、旦那様はそんなつもりじゃ――」
「わかってます」
 苦笑を浮かべ、その先を制する。
 尊也さんは、俺が昔危うく死にかけたことで今でも大いなる罪悪感を抱えている。そうでなくとも、心細いだろう迷子を邪険に扱うほうが人としてどうなんだ。けれど、それと目の前で交わされるいちゃつきを看過できるかは話が別だ。
「……あー、俺、ちょっとその辺で頭冷やしてきますね」
「蘇芳様、先ほどよりも霧が出ているのですよ! 今、お外に行くのは危ないのです」
「ちょっとだけ、玄関先で深呼吸するくらいですから」
「むーん……蘇芳様ぁ……」
 なおも心配そうに引き止めるヤシロさんに片手を振って、俺は大江家を後にした。

 遠くまでは行かないと言ったはずが、振り返るとそこは一面の霧。数分後にはもう、完全に大江家への道筋がわからなくなっていた。
 捨て鉢な気持ちの促すまま歩を進める。勝手知ったる茂狩村、死にはしないだろう――と思ったのだが。
「あ?」
 俺の甘い考えを笑うように、額にぽつり。息つく間もなく辺りが驟雨に襲われる。
「うわ、最悪だ」
 泣きっ面に蜂とはこのことか。
 慌てて一番近い大樹の下に避難する。これだけの木があれば、大まかに現在地の見当くらい付きそうだと思うだろう。が、舐めちゃいけない。茂狩村はちょっと道を外れれば深山幽谷が口を開けているのだ。この村でその辺の木を待ち合わせ場所にしてみろ、元祖『君の名は』の如く切ないすれ違いは必死だ。
「何やってんだろうな、俺は……」
 袖で顔を拭いながら、自分の馬鹿さ加減と、この状況の絵に描いたような惨めさに苦笑する。
 それでも大人の振りをして、仲のいい二人を眺めていることはできそうもなかった。
 突如現れた子どもの俺に、あの頃できなかったことを精一杯してあげたいという尊也さんの気持ちは痛いほどわかる。逆の立場なら、俺だってそうしただろう。
 でも、彼が優しくしているそれは俺じゃない――俺じゃないんだ。だから尻尾を巻いて逃げ出した。俺の口が尊也さんに向けて、思いやりに欠けた言葉を投げつける前に。
 少なくともここにいれば、濃い葉叢でも完全には防ぎきれない雨滴のおかげで物理的にも頭が冷えるだろう。
 肉体に寄らない妙な疲れを感じ、その場に座り込む。俺を小馬鹿にするように雨垂れが落ち、うなじを伝った。
「はぁ~あ……情けね……」
 お袋の次は、子ども時代の自分とか。どうも俺は尊也さんに纏わることで、身内にばかり嫉妬しているような気がする。
 一体、どのくらいそうしていただろう。
 うなだれていた俺の耳は、不意に雨音とは別の音を捉えた。水を跳ね上げ、誰かが取り乱した足取りでこちらへと駆け寄ってくる。それが家の方角から聞こえたのかどうかは、この霧では判別しようもない、が。
「……尊也さん?」
 冷え始めた体を、ほんのりとした期待が温める。俺がいないことに気付いて、わざわざ探しに来てくれた?
 気恥ずかしさと嬉しさに急かされて、尊也さん――と呼びかける寸前で止まった。
 この濃霧で、顔もわからない人間が自分の元へと向かってくる。
 だがそれは、本当に尊也さんなのか……?
 にわかに湧いた恐怖が体を硬直させる。暗闇がそうであるように、見えないというのはそれだけで原始的な恐怖を生む。こんな濃霧の中出歩く馬鹿なんて、それこそ俺くらいのものだ。そんなときに、この足音の主は一体何をそんなに必死で――
 心構えもできずにいる俺の目の前に、霧から湧き出るように人影が飛び込んできた。
「――うわっ!?」
 言っておくが、声を上げたのは俺ではない。
 こんなところに先客がいるとは思わなかったのだろう。整った顔に面食らった表情が浮かぶ。が、それも一瞬のことで、彼は声を上げた自分を恥じ入るように双眸に気まずさを湛えた。
「あ、こんにちは」
「……こんにちは」
 俺の挨拶に、やや緊張の面持ちで、それでもしっかり返された声が若い。
 俺が横にずれて場所を譲ると、彼は目礼しつつ雨から逃れるためにそこに収まった。
 心臓が、ひっくり返りそうなくらい早鐘を打っている。彼のいる側の半身が不自然に熱い。
 不躾にならないよう、そっと横目で盗み見る。
 そうだ、彼が見間違えないのなら俺だって見間違えない。霧の中から飛び出してきたのは、尊也さんだった。ただし、今のではない。かつて、そう――子ども時代の俺がお兄ちゃんと呼んでいた人が、そこに立っていた。
 たぶんこの頃に成長は終わってしまったのだろう。身長は今と同じくらいだが、体の厚みはまだ少し頼りない。
 だがその優れた造形、この世に二つとあるはずがない。他の誰が見間違えようが、俺は絶対に見間違えない。これは尊也さんだ。俺のお兄ちゃんだ。
 不思議なもので、小学生の俺の目に完成された大人に見えたお兄ちゃんは、こうして隣に並んでみれば、ちゃんと高校生だった。いや、もちろん顔面偏差値だの身長だの、埋めようもない格差はあるけどさ。仮に同じクラスになっても絶対接点ないだろこの二人……。
「雨、いきなり降ってきましたねー」
「本当に……」
 探りを入れるために繰り出したジャブに応じつつ、彼は長い睫毛についた水滴をハンカチで拭い始めた。
 あ、水も滴るいい男だ、などと馬鹿なことを考える。
「――不躾なことを尋ねますが」
「は、はい?」
 突如低い声で呼びかけられ、その場で跳ね上がる。尊也さんはわずかに眉を寄せ、伺うように俺の顔を覗き込んだ。
「もしかしてあなたは、しずめさんのご親戚かなにかですか?」
 ――ずっこけそうになる。いやまぁ、これだけ似てたらそらそう思うよな。
 ここで下手に否定したら余計な疑念を招きかねない。嘘も方便。俺は慌てて笑顔を作った。
「あ、はい! そうです。しずめさんの、従兄弟の――渡辺です、初めまして」
「……そうですか。初めまして。しずめさんの義弟の大江です。外出していたせいで、ご挨拶もできずすみません」
 尊也さんは折り目正しく頭を下げる。
 確かこの頃、尊也さんはお袋が好きだったから――俺が同世代とわかっていても、お袋の身内には好印象を与えようと殊更に礼儀正しくしているのだろう。その姿に少しだけ棘の痛みを感じる。
 そんな俺の煩悶など知るよしもない尊也さんは、はっとしたように続けた。
「渡辺さん、この辺で小学校低学年くらいの男の子を見かけませんでしたか? しずめさんの息子の蘇芳くんなんですが、霧の中で見失って――」
 これくらいの、と手で自分の腰当たりを示す。
 ……なるほど、と合点がいった。
 理由はわからない。だがこの霧の中、茂狩村の過去と今が繋がってしまったらしい。そして彼は必死こいて、この霧の中、消えてしまった子どもの俺を探していたと。
 俺は、自分でも意外なくらい冷静だった。
 茂狩村には鬼だってヒルコだってメイドガイだっている。今更昔の俺や尊也さんが現れたところで、なんの不思議があろうことか。あり得ないは、もうあの夏で一生分経験したのだ。
 状況は謎のままだが、ちびすけが大江家で保護されているのは間違いない。ひとまず彼を安心させるために頷く。
「ああ、その子ならちゃんと家にいると思いますよ。さっき大江家に入って行くのが見えたんで」
「そうですか、よかった……」
 なんだろう、その言い方に強烈な違和感を覚える。
 取り繕った善人面という感じじゃない。この尊也さんはどう見ても甥っ子の無事に心から安堵しているのだ。
 いや、待て待て。この頃、尊也さんは俺を蛇蝎の如く嫌い抜いていなかったか……? という疑問も覚めやらぬまま、尊也さんが話の穂を継ぐ。
「渡辺さんは、これから帰るところだったんですか?」
「そうなんです。で、この霧で立ち往生して……」
「霧が晴れるまでは、しばらく動き回らないほうがいいですよ。これじゃ地元の人間だって遭難しかねない。なんなら今夜は我が家に泊まっていってください」
「ありがとうございます、もしそうなったらお世話になります」
 いや、その場合俺が泊まるのはどっちの大江家なんだ? 我が家なのか、彼らがいるほうの大江家なのか――
 不意に浮かんだ懐かしい面影に、胸が締め付けられる。
 そこには、存命のお袋がいるのだろう。一目会いたい――たとえそれが、俺を知らないお袋だとしても。叶うならまたあの朗らかで、歯切れのいい物言いを聞きたかった。
 涙の代わりに前髪から滴が落ちるのを、頭を振って払う。7歳の俺が現れてから、どうにもらしくなくセンチメンタルだな、俺よ。
 横面に尊也さんの視線を感じて顔を上げると、親しみやすい笑みが返ってきた。
 そう、幼い俺以外には如才なく向けられていた完璧な笑顔。鋭い目、高い鼻梁、神の創りたもうた完璧な造作――たとえいくつだろうと、自分と血が繋がっているとはにわかに信じがたい。
「……でも、よかった。もし兄が生きていたら、しずめさんのご親戚が我が家に遊びに来るなんてこと考えられなかったですから」
「え?」
 もし兄が生きていたら……?
 親父が死んだのは、俺がここに帰る二年前だろう。少なくとも俺が小学生だった時分、父はまだ存命だったはずだ。でも、ここで尊也さんが嘘を吐く理由が見当たらない。
 内心の混乱を抱えたまま、さりげなく問い返す。
「今は、三人で……暮らしてるんですか?」
「ええ、しずめさんと蘇芳くんと俺の三人です。彼女から聞いてませんか?」
 小首を傾げ、不思議そうな顔をする。なるほど、家に遊びに来るくらいの従兄弟なら大江家の家族構成に通じていないのはいかにも不自然だ。俺は曖昧に微笑んで誤魔化した。
 そう、さっき妙だと思ったのはこれだ。
 新しいお父さん――7歳の俺が、すでに父親がいないような前提で語っていたのに違和感を覚えたのか。だが生憎他のことで頭がいっぱいだった俺は、どこに不自然さがあるのか咄嗟に気付けなかった。
 先ほど俺は過去と未来が、と判じたが。ちがう、これはタイムスリップじゃない。そもそも違う世界の話をされている。どこでどう分岐したのかは知らないが、彼らは俺が過ごしたのとはまったく違う現実を生きているのだ。
 雨脚は先ほどの土砂降りよりも弱まっていたが、まだ霧は濃く、世界をこの木の下に限定している。
 混乱に囚われてしばらく無言になっていると、尊也さんが小さく笑う気配がした。
「渡辺さんは……本当にしずめさんにそっくりですね。まるで姉弟みたいに。そう言われませんか?」
「え、そうですか? あははは……そうかなー」
 うるさそうに濡れ髪をかき上げた尊也さんが、わずかに顔を傾け静かに笑った。自分がどういう顔をしているか、それが他人にどういう効果をもたらすか、知っている笑い方。
 その麗容に半ば見とれていると、冷たい指が俺の顎をそっと上向かせた。
「あ、あの……」
 雨に濡れたせいだろう。叔父の体からシャンプーだかなんだかのいい匂いがして、たじろぐ。
 え、なんだ、この状況。まるでキスの一つでもされそうな。
 いやいや、嘘だろ。この時の尊也さんはお袋に惚れていて。同じ顔の人間ならなんでもいいなんてそんなまさか。俺達三親等だって色んなことを乗り越えてようやく結ばれ――
「それで」
 完璧な笑みを1ミリも崩さないまま、薄い唇から白い牙が覗いた。
「――お前、本当に彼女の従兄弟なのか?」
 俺の双眸に突き刺さったのは、誤魔化しを許さない緋の視線。
 動物的本能から反射的に身を引いた瞬間。
「――ッが!?」
 胸ぐらつかまれて木肌に叩き付けられ、口から圧縮された空気の塊が押し出される。尊也さんはすでに、一瞬前までの笑顔をかき消していた。
 浮いたつま先が宙を掻き、ものすごい握力に気道が狭まる。
「彼女は一人っ子だ。それにたとえ何があっても頼らないくらい、渡辺の家を嫌い抜いている。遊びにくるほど親しい従兄弟がいるなんて話、ただの一度も聞いたことはない。それを――俺達がたまたま出かけた隙に彼女の自称親戚が、こんな田舎くんだりにまでアポなしで訪ねてきたと? それを俺に信じろとでも言うつもりか?」
「た、尊也さ――」
「……なぜ俺の名前を知っている? 俺は、お前に名字しか名乗っていない」
「がぁッ!」
 迂闊な発言に、再び背中を木に打ち付けられた。
 あの刹那、一見礼儀正しく挨拶をしながら――いや、下手したらこの木の下で互いを一目見たときからすでに。この人は俺を外敵と睨んでいたのか。
「あぁああッ、がは……ッ!」
 ギリギリと喉笛を締め上げる腕の力は人間のそれじゃない。現に瞳孔が縦長の、燃える紅に染まっている。
 鬼の力は身を持って知っている。たとえ片腕一本でも難なく俺を縊り殺すだろう。
 真正面から浴びせられる、質量さえ伴うような憎悪と殺意。それが尊也さんでなければ、今すぐ泡吹いて気絶するところだ。
「俺は大江家唯一の男手だ。どこの馬の骨ともしれない輩が、我が家の周りをうろつくのを見過ごすとでも思うのか? しずめさんと蘇芳くん、二人のうち一人でも無事じゃなかったらお前、どうなるかわかるよな」
「が、ぁ……ッ!」
「安心しろよ、殺しやしない。手脚へし折って素っ裸で茂狩山に放置してやる。お前は本来なら天敵でもなんでもない野生動物に、生きたままじわじわ食われるんだ。知ってるか? あいつらはまず、目玉だの舌だの性器だのの柔らかくて食いやすいところから狙う。お前は視界を失い、助けを呼ぶ舌も失い、男としての尊厳も失う。ああもっとも、呼べたところで茂狩山で誰もお前のことなんて助けやしないが。喜べよ、明日は山が無人になる禁足日だ。お前の悲鳴は公然と無視される。明後日まで生きていたら、ひょっとしたら助けてもらえるかもな。もっともその時にはお前自身――死んだほうがましだと思っているだろうが」
「ッ、ひ……ッ」
 ギリギリと首を絞めながら、鬼が軋り笑う。
 冗談じゃなく、漏らしそうなほど怖い。この地獄の眼差しの前で「俺は未来の渡辺蘇芳です」なんて馬鹿正直に言ってみろ。次の瞬間には、どこかの骨が砕かれる。
 どう言えばいい? どうすれば彼を穏便に納得させられる?
 いや、そもそも彼らは俺とは違う世界を生きている。そこではお袋も生きていて、たぶんお兄ちゃんと俺は仲良しで、三人ともなんの問題もなく暮らしていて。俺が口を滑らせたことで、彼らの世界に変な悪影響を及ぼしたくない。
「かはッ、あ、が……!」
 答えずにいることで不興を招いたのか、首に掛かる力が増した。
 たとえ力で及ばなくとも、蹴りつけたり引っ掻いたり、とにかくやろうと思えばなんでもできただろう。元来俺はそんな聖人でも、平和主義者でもないのだ。
 ――だが、できない。たとえ暴力を振るわれても、この人に暴力なんて振るえない。
 尊也さんは尊也さんだ。それが俺の尊也さんではなくとも、別の俺にとっては掛け替えのない、尊也さんなのだから。別世界の俺に、もしも俺の大切な尊也さんが傷付けられたら――俺はそいつを許さない。
「……ッ、たかやさ、ぐるじ……」
 いよいよ酸欠で頭が回らなくなってきた。
 無駄と知りつつ、左腕一本でどうにか強い腕を引き剥がそうとする。そこで初めて俺の右腕が装飾用の義手であることに気付いたのだろう。瞬間、腕の力がわずかに緩んで、ようやく靴底が地面に着いた。
「――ごほッ、げほぉおッ!」
 待望していたはずの空気に気道を犯され、その激烈な苦痛に咳き込む。
「顔を上げろ、まだ話は終わってない」
 大きく息を継いだ瞬間、強引に顔をつかまれたせいだろう。冷たい親指が偶然口の中に入った。
「んへぇえ……!?」
 一瞬、噛みきられることを警戒したんだろう。緋色の視線が剣呑さを高める。
 咄嗟に彼の手首を掴みはしたものの、そこから反撃も逃げることもせずにいる俺に、戸惑った風に眉根が寄せられた。
「う、ぇ……やぇれ……ゆぃ、はなひれ……!」
 唾液が指から手首に伝う。汚してしまうと顔を背けようとすると、あろうことか尊也さんは指を押し込んできた。
「やぇれ、たかやひゃ、んがッ、ぐ!?」
 舌を押さえられているものだから、必然的に間抜けなしゃべり方しかできない。
 一連の流れで俺が噛まないという確信を得たのだろう。中指と人差し指まで押し込まれて、逃げる舌を捕まえられた。
 混乱の極みに達した俺を、若き叔父が貴族的残酷さを込めて冷たく睥睨していた。
「んええ……は、はりゃひて、くらさ……!」
「どうした? 話せ。お前はどこの誰なんだ?」
 話せったって、この状況で何を話せと。
 たぶん、俺の正体なんてもう本気で聞いていない。すでにこの人の中で目的が変わり始めている。尋問ではなく、俺をいじめて遊びたいという方向に。
「うぇえ……えぁ……! ひゅえ……」
 ぬるい唾液が顎を伝ってぼたぼたと滴る。この人は若干潔癖症気味なところがあるのに、俺のよだれまみれにされて気にならないんだろうか?
「ふへ……へぇええ……! ははやひゃ、やめへ……」
「何言ってるのかさっぱりわからないな」
 あからさまな揶揄に頭の中がかっと熱くなる。
 ずるい――俺はこんなよだれまみれの間抜け面を晒しているのに、自分一人だけ清潔なままで。
 思わず睨み付けると、たったそれだけの反抗すら許さない指に、ぐいと舌を引っ張られる。
「いひゃあ……! いらい、いらいっれ……!」
「話す気がないのなら、いっそこのまま引っこ抜いてやろうか?」
 言葉とは裏腹に、冷たい指は痛めつけるというよりは意地悪をする動きで。ぬる、と三指を器用に使い、舌の腹と側面を同時に扱くような真似をする。
「うぅ、ああ……やぇれ……♡」
 目の前に、霧とは違う靄が掛かる。
 馬鹿、たかだか舌を弄られただけで反応するな! 尊也さんに対して、俺の快楽耐性がクソザコ過ぎる。あ、やばい――二人の間に漂い始めた雰囲気が、よく知っているそれで。さっきとは違う意味でまずい。
「はは、なんだその顔は? 無様だなぁ、お前」
 俺の有様を見て、上品な口元が嗜虐の色に染まる。
 鬼の中で性欲と食欲と殺意は密接に結びついている。大切な人達の無事を確かめられない不安、外敵への殺意、そこに俺の妙な反応が相乗効果を発揮して――さ、最悪だ。状況ができあがっている。
 たとえ7歳の俺が望んでも、この人が子どもから血を搾取したとは思えない。彼がまだ制御不能の、血に飢えた体質を抱えているとしたら。俺相手にだって過ちを犯す可能性はある。何しろ性別が違うだけで、顔の作りは彼の深く愛する女と同じなのだから。
 過ち、の一言に胸の中で何かがどろついて。俺の中でひた隠しにしていた、とある無念が騒ぎ出す。
 屠蘇の血の恩寵は、一人につき一度きり。ヒルコが望んで差し出すことで、その効果は跳ね上がる。
 なら俺にとって別の世界のこの人は――未だ屠蘇の血童貞(ノーカウント)なんじゃないのか?
「はらひへ、いうかぁ! ゆい、はらひふぇ……」
 俺の物言いが変わったことを本能的に感じたのか、尊也さんの眉がひゅっと上がる。
「なんだ、何が言いたい」
「うぅえ……げほっ!」
 指の間に唾液の橋を架けながらようやく舌が解放され、途端に呼吸が楽になる。
 言葉の続きを促すように、唇に唾液を塗りたくられた。口周りをべとべとにしながら、上目遣いに叔父を見やる。
「……俺の、正体なら、言葉よりも血で証明したほうが早い」
「……なに?」
 その一言に、尊也さんがたじろいだ。
「や、命乞いとかじゃなくて。俺の血を飲めば、それがあなたに敵意のない一番の証拠になるかと思って」
「なにを言って――」
「知らない振りはしなくていい。大江家の男が、この意味がわからないはずがないでしょう?」
 ぐい、とセーターをずらして頸動脈をさらけ出す。
 飢えた獣の鼻先に、レアステーキを差し出すようなもの。鬼の聴力は、きっと血流の音すら捉えているに違いない。
 勇気づけるように、あるいは焚きつけるために笑ってみせる。
「……ほら、飲んでいいよ。俺のじゃなくても、あなたは尊也さんだから。屠蘇の血は大江尊也(あなた)のためにあるんだから、遠慮はいらない」
「お前一体……どこでその話を聞きつけた――!?」
「いやだから、疑問を解消するにはこれが一番手っ取り早いんだって。俺の血があなたになんの贈り物ももたらさなかったら、前言通り山にでも捨てればいい。この提案、そっちにとってはメリットしかないはずだろ?」
 ごくりと、白い喉が鳴る。
 知らない人にお菓子をもらってはいけません。それが一生に一度しか口にできない、甘いお菓子ならなおさらだ。
 衝動と、警戒と、不審と、餓え。彼の中でそれらが激しくせめぎ合っているのがわかる。
 だからこそ俺は笑った。この高貴な人の葛藤に、とどめを刺すために。
「――それとも俺が怖いのか? 鬼のくせに」
 挑発するが早いか、みたび強く木肌に叩き付けられ、首元で牙が軋る。そうだとも、ヒルコ相手にこんな侮辱を許す人じゃない。
「殺してやる……!」
 煮えたぎる真赭の瞳で言われても怖くない――どころか待ち望んだ瞬間に、安堵のため息すら漏れた。
 利き腕をなくしたことは後悔していない。二人の命を腕一本で贖えた。安い代償だったと本気で思っている。
 でも、時折どうしようもなく思うのだ。できればあんな形で捧げたくはなかったと。こうして自分の意志で、二人きりで誓いを交わすように首筋を捧げられたら、どんなによかっただろうと。
 尊也さんは、もう俺の血を飲まない。餓えを克服したのだからその必要がない。あれ以降、あの人は俺を傷付けることを極端に忌避するようになったから。
 だから俺がどんなに願ったとしても、この首筋にあの人の牙が突き立てられることは永遠にない――
 俺に無念があるとしたら、それだけだ。変則的ではあったとしても、その願いが今手に入る。大江尊也に自分の意志で噛んでもらえて、この血でまた尊也さんを助けられる。
 ちり、と牙の先端が皮膚をかすめ、そして――

「……お兄ちゃーん、おにいちゃーん!」
 真っ直ぐに、迷いなく。ととと、と小さな足音が近付いてくる。
 霧の粒子をまとって、小さなシルエットが尊也さんの脚にしがみついた。
 途端に場の剣呑な空気がほどけて、尊也さんは小さな俺を受け止める。その目にはもう、凶暴な血の餓えはかけらも見当たらなかった。
「――蘇芳くん! 急にいなくなったから心配したよ」
「ごめんなさい……」
「いいよ、無事でよかった」
 お互いの無事を確かめ、強く抱きしめ合うその姿に、下手な言葉よりも雄弁に理解させられる。
 ああ――やはり。彼らは、あの頃の俺達とは違う存在だ。
「お兄ちゃん、ちゃんと見つけたよ。すごい?」
「うん、すごい」
 子どもは満足げに、ふふーと笑う。
 その光景を純粋に羨ましいと思い、同時に今ここにいない人がたまらなく恋しくなった。
 ……そうだ、この人じゃない。俺が噛まれたかったのは、俺の尊也さんなのだから。
 そして彼が本当に噛みたいのも、きっと俺じゃなくて。だからこれはお互いにとって幸運なアクシデントだったのだろう。
 声は変わらず聞こえ続けているのに、ほんの数メートルしか離れていない彼らの姿がろくに見えない。今俺にとって確かな現実は、背後にある木の幹の感触だけだ。
「お兄ちゃん、おうち帰ろ」
「うん……」
 子どもを抱きかかえたまま、ちらりと俺を見た尊也さんがもの言いたげに唇を開きかけて。
 何か言う間もなく、二つの世界は白霧に断絶された。

 しばらく呆然としているうちに、完全にとは言えないまでも、ここがどこかわかるくらいには霧が薄れてきた。
 なんてことはない――本当に家の近所だ。こんなに近くであわや遭難する羽目になるとは。これなら歩いて帰れるだろう。
 二人の姿は、もはやどこにもない。まるで白昼夢でも見たかのように。
 もう、先ほどまでの不安とか嫉妬だとか、そんなものは俺の中からきれいさっぱりと失われていた。
 家に帰ろう。雨に濡れても、すぐに風呂に入ればいい。
「蘇芳くん」
 名を呼ばれ、どこかぼんやりした気分のまま振り返る。
 未だ止む気配の見えない雨の中、黒い傘を差して。叔父がそこに立っていた。
 唾液まみれの口元を慌てて拭う。尊也さんは特に何か言うでもなく、黙って俺を見つめていた。
 無言で傘の下に招かれ、雨の中歩き出す。
 二人の間に会話はない。いや、もう拗ねているわけではなく、未だに霧の中の不思議な邂逅に囚われ、心ここにあらずの状態にあったというだけで。生憎尊也さんのほうは――何を考えているのかわからないが。
 ああ、もしかしたら。
「尊也さん、あのちびすけなら大丈夫ですよ。保護者がきて、元の場所に帰っていきましたから」
「へえ」
 ……いや、「へえ」て。
 常の尊也さんなら「それは本当に保護者だったのか?」とか「保護者を名乗る不審者に引き渡してしまったのでは?」とか、しつこく確認してもよさそうなものだが。さっきまで下にも置かずもてなしていた割りに素っ気ない反応が気にかかる。いや、保護者について突っ込んで聞かれても説明に困るので、ある意味助かるが。
 それに……さっきからなんだ、肩に食い込む指の力が強い、ような。
 互いに無言のまま歩を進め、もう少しで我が家が見えてくるという小径で。尊也さんは、なんのきっかけもなく傘を落とした。
 ぱしゃん、と水たまりが泥水を跳ね上げる。
「尊也さん、傘――」
 傘を拾い上げようと伸ばした腕を掴まれ、顔を上げる。
 次の瞬間、セーターを引き毟るようにさらけ出された頸動脈に――鬼の牙が突き立てられた。
「――ッ、ぐぁあああああああああああああああああ――ッ!?」
 ぶつん、と皮膚が破れる音がして。最初に感じたのは文字通りの激痛。
「いた、痛いッ、尊也さん、いた、あああああああああああああああああああ……ッ!」
 痛い、痛い、痛い! 血管に無慈悲に牙が突き立てられ、血潮が貪欲に吸われているのがまざまざとわかる。目の前が真っ赤に染まり、死の一文字が脳裏に浮かぶ。
 俺がどれだけもがいても、強い腕の拘束はびくともしない。どころか暴れるほど仕置くように深く牙が食い込み、文字通り貪られる。
「……あ、が……ぉ、お……」
 痛みと貧血で黒目が目蓋の裏まですっ飛び、喉を反らしたことで意図せず首筋を差し出す格好になる。狙い過たず、鬼が俺を貪り始めた。
 走馬灯なのだろうか。俺はこんなときに、何かのついでに叔父が話してくれたことを思い出していた。

 鬼の唾液には、獲物の傷口を即座に塞ぐ特殊な成分が含まれている。
 頸動脈に食らいついても獲物を生かしたまま効率的に血を吸うために、そういう風に進化したと。
 なるほどと思ったものだ。無駄なく血を吸い尽くすなら、ポンプは最後まで動いていたほうがいい。
 そして輸血用血液も手に入れられない時代に人間を浚うコストを考えたら、獲物を殺すよりも飼い殺して定期的に血を吸った方がいいに決まっている。と考えると、拷問に使用するにしては妙に房の多かった大江家の地下牢は、血液供給用の獲物を飼うためにも使用されていたのかもしれない。
「今更どうでもいい知識だがね。何しろ吸血なんて――もう私とは一生無縁のことなのだから」
 尊也さんは、そう言って笑っていた。
 ――でも、叔父は本当のことをすべて話したわけじゃなかった。
 死なない程度の吸血、傷を塞ぐ程度の力じゃ足りない。なぜなら生かしておく限り、獲物の逃亡する可能性はなくならないから。殺してしまえば二度と血は吸えなくなるとは言え、秘密が外に漏れることはない。
 だがもし、獲物が逃げられなかったのではなく、自分の意志で逃げなかったのだとしたらどうだろう。自ら望んで鬼の共犯者になっていたのだとしたら?
 おぞましく、忌まわしい吸血行為。
 それが、普通に生きていたら味わえないような悦楽をもたらすとしたら――望んで身を差し出す鬼神の崇拝者は、いつの時代にも存在したんじゃないのか?
 転校先がどうにもなじめない土地柄の時、俺は図書室や図書館で放課後の時間を潰した。
 俺が好きだったのは、今ならトンデモ児童書と呼ばれるような昭和の怪奇本。そのけばけばしくて大仰な表紙。吸血鬼に襲われ首筋から血を滴らせるブロンドの美女は、命の危機にありながら恍惚として艶めかしく。胸元も露わに、妙に性的に描かれていたのを思い出す。
 性的絶頂を小さな死と言うように。死と性は、常に皮一枚挟んだところに存在している。
 だから吸血行為は、吸われる側にとってもきっと――

「あ、あ……あ……♡」
 拘束されたまま舌をつきだして、尊也さんのスラックスを意味もなく掴む。
 次第に左手は空を掻くばかりになって――そのうちだらりと体の脇に垂れ下がった。
「たか……ぁ、さ……♡」
 脱力したまま、されるがままに血を吸われる。
 全身ずぶ濡れになって、寒いのに熱い。なるほど、こうして無抵抗に身を委ねられた方が、そりゃあ吸うほうだってはかが行くに決まっている。
 じゅる、と。食事の時に無闇に音を立てない叔父が、俺の首元ではしたない啜汁音を立てて、そそられる。
「あぇ、ぇえ……♡」
 雨に薄められた唾液が、閉じることを忘れた口端から落ちた。
 牙が引き抜かれる感触にすら感じる。穿たれた穴はすでに塞がり始めているらしく、そこから血が噴き出すことはない。
 雨で前髪を崩した尊也さんは小首を傾げ、真紅に染まった口を開いた。
「……君の右腕を食らって血の餓えを克服しておきながら、この上更に君の首筋に牙を突き立てたいという下劣な欲望を抑え付けるために、私がどんなに苦労したかわかるか?」
 地獄の底から響くような声が、血腥い呼気とともに吐き出される。
 わかっていたはずだ。この人はいつも我慢するから、何かのきっかけでそれをやめたとき――反動がとんでもないことになると。
「血の餓えは茂狩山の鬼が刻んだ。この新たな飢餓は、君が私に刻んだんだ。なのに君は、私以外に許そうとした。それも私の目の前で」
 あれはあなたです、とは言えなかった。俺だって、7歳の子どもに大人げなく嫉妬していた。
 叶えてはならない欲望を、目の前でかすめ取られそうになった尊也さんの激情を思う。苦しみから助けたいという思いの根底に、あわよくば無念を満たしたいという浅ましい欲望があったのは確かで。
 違う世界の同一人物だ、結果的に未遂に終わったからいいじゃないか。
 そんな甘っちょろい言い訳は一切通用しない。俺の目の前にいるこの"大江尊也"以外に許そうと思ったこと、それ自体が許されない不貞だから。
 熱い舌が、名残惜しそうに二つの跡を埋める。体にまったく力が入らない。まるで子どもに無造作に抱えられている人形になった気分だ。
 すり、と尊也さんが冷たい頬を寄せる。皮膚が溶けたように、二人の頬が雨で張り付く。
「――どんなにこうしたかっただろう。そんな私の気も知らずに、私の目の前で他の男に首筋を差し出すだと? ――なんてひどいことをするんだ。君は私のものなのに、どうして私を悲しませる?」
「……ごぇ、なさ……♡」
 怒声でも、罵倒でもない。放蕩息子を窘めるような物言いが、逆に怒りの深刻さを感じさせる。
 人の気も知らなかったのは、そりゃあなたも同じでしょう。俺だってずっと、あなたにこうしてほしかった――とは、満たされきって馬鹿になった頭では言えなかった。
 どれだけ怒っていようと、叔父は怒りにまかせて俺を吸い殻にしたりはしない。
 だから俺が動けないのは痛みでも、ましてや貧血のためでもなく、完全に腰が抜けていたからだ。味わったためしのない快感のために、奥歯をがちがち震わせながら。
 駄目だ、これ――駄目だ。
 愛が極限にまで効力を高めるという仕様上、屠蘇の血を誰に捧げるか――少なくとも、決定権はヒルコ側にあった。それはともすれば鬼に食いものにされるだけのヒルコ達が編み出した、なけなしの自衛手段だったのだろう。
 けれどこれからは、この人に懇願して血を吸ってもらわないといけなくなる。
 本末転倒だ。ヒルコが鬼に媚を売り、「どうか吸ってください」と這いつくばって首筋を差し出すなんて。尊也さんはもう、血を必要としないのに、なぜ今更。
 でも――これでいい、これが二人の正解だ。
 俺は鬼神の崇拝者だ。初めて会ったあの頃から――そして今も。
「でも、これでわかってもらえたかな? 私の愛の重さを。鬼の中でも一等たちの悪い鬼に愛されるというのはこういうことだと――わかってもらえたかな? 蘇芳くん」
 乱れた髪の先から雨水が滴り、俺の顔を叩く。
 雨の中。血の紅を刷いた唇で、どこまでも高貴に俺を見下ろし微笑む叔父の美貌を。まるで額ずく奴隷のように、ぼんやりと見上げて。
「ぁ……、い……わかりまひた……♡」
 ろれつの回らない舌を、冷たい雨が穿つのを感じていた。

 霧が晴れたとき、そこは俺の見知った茂狩村だった。
 ぽかぽかと温かい体を抱っこしたまま、蘇芳くんの顔を覗き込む。
「蘇芳くん、右手を見せてくれるかな」
「右手? はい」
 俺の求めに、小さな手が差し出される。よかった、彼の手はちゃんと――ある。
 そこまで考えて、なぜ自分がそんな不安に駆られたのかわからなくなる。彼と蘇芳くんの間には、何の関係もないだろうに。
 いや、本当にそうなのだろうか……。
「ケガしてないよ? 大丈夫だよ」
「うん……よかった」
 頭に上っていた血が下がれば、無抵抗の――それも体が不自由な人を冤罪で痛めつけたのではないか、という罪悪感に打ちのめされる。
 けれど到底、他人とは思えない。性別が違うだけで彼はしずめさんに瓜二つだった。そう、ちょうど蘇芳くんが大きくなればあんな風に――
 そこまで考えて、かっと頬が熱くなる。
 俺はあの時、完全に正気じゃなかった。いくら異質すぎる存在に強烈な不審を煽られたところで、絶対に彼に『あんなこと』をする必要はなかった。あの瞬間、一体何が俺を狂わせたのかが自分でもわからない。
 ――そして、血。
 彼は明らかに、屠蘇の血について知っていた。自分の血を飲めば一時しのぎではない、餓えからの完全なる解放が叶うと明確に示唆していたではないか。
 となるとその顔貌が示す通り、彼はやはり渡辺に連なる人間で。必然的にしずめさんが、身内に我が家の秘密を漏らしていたことになるのだが……。
 咄嗟に頭を振る。いや、そんなことは絶対にありえない。彼女は誠実な人だ、何より最愛の蘇芳くんに危険が及ぶようなことは絶対にしない。
 第一屠蘇の血とは、渡辺側の血筋に由来するものですらない。
 鬼と巫女の血を混ぜて偶発的に生まれた、それも確実に発現する保証はない奇跡の存在。そんな人間がこの世に二人も三人もいてたまるか。
 何もかも謎だらけだ。
 少なくとも渡辺くん? は、初対面の相手に物怖じするようなタイプにも、暴力で思い通りにできるタイプにも見えなかった。なのになぜ彼は俺に無体を働かれ、ろくに抵抗もしなかったのか。ましてや自ら血まで差し出そうとするなんて。
 敵に塩を送るどころの話じゃない、それこそ、吸うだけ吸われて殺されたら、彼はどうするつもりだったんだ?
 仮に彼の体に屠蘇の血が流れているのだとしても、こちらにそんなことをしてもらう義理はない。全体、その献身はどこからくる?
 ……俺だから? と考えて頭を振る。何を自惚れているんだ。初対面の男だぞ。
 こうして彼のことを思い出すだけで、よくない感じの震えが背筋を這い上がる。いっそ雨に濡れて風邪でも引いたんだと思いたい。
 俺が一人で唸ったり顔を赤くしたりしていると、蘇芳くんは拗ねた猫のように首元を甘噛みしてきた。
「いてて……どうした、蘇芳くん」
「お兄ちゃん、ふていのにおいがするよ!」
「……蘇芳くん、どこでそんな言葉覚えてくるの」
「テレビで言ってた」
「ええ、教育に悪いな。お兄ちゃん、不貞なんか働いてないよ……」
「ほんと?」
 曇りのない眼差しに、内心ぎくりとしつつ頷く。あれは不貞じゃない……ぎりぎり、不貞じゃないと思う。
 血気に走った残り香でも嗅ぎ取ったのだろうか、なでなでと頭を撫でてくれる。この子は本当に俺の気持ちに敏感だから。
「……お兄ちゃん、苦しいならいつでもあげるからね。今すぐでもいいよ」
「飲まないよ、二人で約束しただろう? 大人になっても蘇芳くんの気持ちが同じだったら、その時は君の血をもらうって」
「むー、今でもいいのになぁ……」
 拗ねて、ぐいぐいと頭を擦りつけてくる様に苦笑する。この子は俺に血を与えることに意欲的で困る。
 でありながら、初対面の男の誘惑に屈しそうになった自分が情けない。甥っ子との大切な約束を、叔父である俺が先んじて破ってどうするのか。
 でも彼が――渡辺くんが俺を陥れようだとか、そんなことを考えていたとは不思議と思えないのだ。
 飲めばわかると断言したあの目には、ひとかけらの偽りもなかった。いや……他人に易々と心を許さない俺が、初対面の男を無条件で信じているのがそもそもおかしいのだが……。
 だからこそ最後、互いの姿が見えなくなる寸前。せめて彼に一言謝罪しようとしたのだが――それも叶わなかった。
 ――あの男。一瞬、兄が化けて出たのかと本気で我が目を疑った。
 あの一瞬の間に、二人の間に何が起きたのかすべて承知の顔で。傘の奥から地獄の眼差しを突き刺してきたあの男は一体何者なのか。もしも二人の間に蘇芳くんという盾がいなかったら、俺は今頃どんな目に遭わされていたかわからない。
 どうにも不安が拭えない。渡辺くんがあの男に害されていないといいが……と。自分も散々な目に遭わせておきながらそんなことを願う俺は、やはり人でなしなのだろう。
「……ごめんな、蘇芳くん。悪いお兄ちゃんで……」
「お兄ちゃん、いい子だよ?」

 不思議そうな甥っ子の顔に頬を寄せる。
 この子に謝ったってしかたないのに、なぜだか俺は心から謝罪せずにはいられなかった。

2020/11/14 Tumblr掲載
2020/11/17 LOG収納

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