億万劫の違算
億万/≠億兆

 庭を静かに濡らす雨音が眠りを誘う。
 古い柱時計が規則的に時を刻む音は、まるで母親の胎内に還ったような錯覚を覚えさせた。

 今日の産形邸は、朝から乳白の霧雨に包まれていた。
 革張りのイスに腰掛け。僕は何を思うでもなく、手元の茶器を満たす紅茶の赤色を眺める。頭の中にまで、しんねりとした靄が掛かっているような感じだ。
 ここで何かを――思い出したいのに、なぜだろう。頭に浮かぶエピソードが一つもない。
「――万里」
 低い声で名を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 マホガニーの机越し、いつの間にかお父様が僕を見つめていた。その光彩が淡く、瞳孔の小さな瞳。
 ぼんやりと辺りを見回す。
 産形邸で最も日当たりがいい場所に贅を尽くして設えられた、そうだ――ここはお父様の部屋だ。あいにくの天気では、自慢の日当たりも望めないけれど。
 僕は眠気を振り払うために眉間をつまむ。
「すみません、お父様。なんだか頭がぼうっとして――なんのお話でしたか?」
「気にするな、別に大した話じゃない」
 僕は思わず苦笑する。
 それがお父様の話なら、僕にとって大したことはない、なんてことはありえないのだけれど。
「お茶をもう一杯もらえないか」
「はい、ただいま」
 サービングカートの脇に立ち、心を込めてお茶を淹れる。
 不意に目が合い微笑みかけると、お父様も薄い微笑みを返してくれる。
 産形億人――それが僕達兄妹の養父の名前だ。

 お父様は、施設で書いた僕のこましゃくれた作文を読んで興味を引かれ、僕達兄妹を養子に迎えようと思ったというなかなかの変わり者だ。当時は「そんな『あしながおじさん』みたいな話、本当にあってたまるか」と訝しんだものだが。
 僕の妹は、生まれつき体が弱かった。
 養子の人気は、なんと言っても自分の色に染めやすい赤ん坊。ある程度物心のついた、他の子どもよりコストのかかる不健康な子どもを、好んで引き取りたがる養父母はそういない。
 中には僕だけなら引き取ってもいいという申し出もあった。冗談じゃない――兄妹は一心同体だ。妹だけでも助けてくれるならまだしも、逆はありえない。
 それを――子どもを一気に二人も引き取るだと? 妻帯もしていない男が?
 なまじその頃から無駄に本ばかり読んでいた弊害か。僕は父のありもしない魂胆を、すっかり看破した気になっていた。
 なるほど――つまり、そういうことか。
 だが上等だ。小児性愛者の変態でも構わない。妹を助けてくれるなら、僕はどうなろうと。ただし妹に指一本でも触れたらその時は、絶対に容赦しない。
 が、僕の浅ましい疑いは、間もなく僕自身によって裏切られることとなった。
 お父様は僕達兄妹に、一切不埒な真似をしてこなかった。
 どころか非の打ち所のない完璧な父としての振る舞いは、ひねた子どもの疑心暗鬼を木っ端微塵にするには十分で。お父様は迷いない言葉と揺るぎない行動で、僕の根深い大人への不信を払拭してしまった。
 最初に抱いた疑いが強ければ強いほど、それを大きな信頼で覆されたとき。人は崇敬という心地よい泥沼に嵌まって、そこから一生抜け出せなくなるものだ。敵は絶対に信じないが、一度味方と認識してしまったが最後。もう二度と疑えもしなければ、逆らえもしない。
 茶葉を蒸らしながら、5客しかないマイセンのアンティークカップに、懐かしい笑みが溢れる。
 まだこの家に来たばかりの子どもの頃、6客組の一つを落として割ってしまい青い顔をしていたら、お父様は何も言わずに器の破片を片付けてくれた。
「万里、失敗してもいいんだ。物なんていつかは壊れるのだから。それより、お前にケガがなくてよかった。物に代わりはあっても、体は元には戻らないのだからね」
 次は気をつけなさい、と頭を撫でてくれたお父様にしがみついて、子どもだった僕は泣いた。
 僕は兄だ、妹を守らなくては。大人は敵だ、実の親ですら子を捨てる、誰も信用できない――常に気を張って生きてきた僕を、ただ「いいんだ」と。そんな風に肯定し許してくれた人は、お父様が初めてだった。

 まだ僕が学生の頃。
 その頃にはもうすっかりお父様に心酔してしまい、僕は父に師事し、いずれは同じ投資家になろうと決めていた――のだが。
 進路希望のプリントを見せながら父と同じ道に進むと伝えたとき、お父様はただ、首を横に振ったのみだった。
 恩を返す手段は、父自身によって失われた。そもそも期待なんて、最初からかけられていなかった――?
 喜んでもらえると思っていたのに。衝撃を受け色をなくした僕に、お父様は静かに続けた。
「万里、お前は投資家には向いていない」
「お父様、しかし――!」
「誤解するな、お前の天禀を活かせるのは、何も私と同じ道とは限らない、と言っているだけだ。なりたいんだろう? 小説家に。適性のない道に進んで並の投資家で一生を終えるより、産形の家から偉大な作家を排出したほうがよっぽど誉れだ。信じる道を進みなさい」
 ハーバードで経済学を修めたお父様にそう言われてしまっては、もはや反論する余地もなく。
 またけっして認めてはもらえないだろうと、口に出す前から諦めていた夢想を後押ししてもらえたという感激で。僕の父に対する崇敬の念は留まるところを知らず、ここにきてほとんど狂信のような域に達そうとしていた。
 本当は僕も、心の底ではわかっていたのだ。
 生き馬の目を抜く投資家だなんて――夢想家の僕には程遠い生業だと。

 作文一つで僕達を引き取ろうと決めたくらいだ。思うにお父様は、伯楽としての才も持ち合わせていたのだと思う。
 幸い拙作は縁と運とに恵まれて、メディアミックスされたり、それなりに名のある賞を授与されたりはしたけれど、その程度では産形の名を背負うには程遠い。
 この国だけじゃ駄目だ。産形万里は、ポーやラヴクラフトやスティーブン・キングに比肩する偉大な作家にならなければ。お父様が僕を引き取り、望んだ道に進ませてくれた意味がないではないか。
 そう考えると、まことしやかに天狗筋と囁かれる産形家も、ホラー作家の実家としてはあまりにも出来すぎたところがある。
 謎多き産形家。中でも特に謎めいているのは、あの男――そう、あの男だ。
 産形邸の仏間に、一人だけ遺影の存在しない男――お父様の父親、産形兆。
 全体どんな不名誉があったものか。お父様は昔から自分の父親のことを、けっして僕達の前で語らない。それは触れてはならないパンドラの箱なのだと、僕も子ども心に感じていた。
 お父様の完璧で、しかしどこか影のまとわりつくお顔は、恐らく実父との間の屈託に由来しているのだろうと僕はそう睨んでいる。

 と、いつの間にか砂時計の砂は落ちきっていた。
「どうぞ、お父様」
「ありがとう」
 お父様はストレートティー、僕はその時々の気分で。
 再びイスに掛け、新しく淹れた紅茶を含む。給仕は本来使用人の役目なんだろうけれど、今のところこの役目を誰かに譲るつもりはなかった。彼らのことは家族の次くらいに大切に思っているが、誰であろうとこの憩いの時間に水を差されるのは面白くない。
 産形家において風変わりなのは、何も遺影のない男ばかりではない。
 産形邸の使用人はすべて、かつて世間を騒がせた、凶悪事件の加害者の身内で構成されている。
 自分が罪を犯したわけでもないのに、たとえ張本人が極刑になろうと、どこへ行っても後ろ指をさされ、いつまで経っても世間から蔑まれる人達。
 監獄は贖罪の場所というだけではない。世間という残酷な脅威から、罪人の安全を守るという役割も果たしている。
 彼らは全員――鬼しかいない渡る世間に背を向けて、望んで産形邸という監獄に入った囚人達だ。
 産形邸では日々の糧も住む場所も、仕事も保障も与えられる。共に働く仲間は、文字通りの『お仲間』だけ。みんなが同じような悲劇を経験し、互いの事情を知っていて、故に誰にも気兼ねすることはない。
 自分にはどうしようもない事情で、責められたり見下されたりしない場所――恐らくはそれを、人は天国と呼ぶ。
 自分が自分らしくいられる天国を守ろうとするとき、人は死に物狂いの力を発揮するものだ。だからこそ産形邸の使用人の忠誠度は、この国民総平等社会のご時世には考えられない、ヴィクトリア朝の如き旧弊さで堅持されている。たとえこの邸で何が起ころうと――お父様が白と言えば、皆一丸となって黒を白に変えてしまう。
 産形億人を頂点に前時代的絶対王制が敷かれた産形邸は、でありながら奇妙な調和と平穏を保っていた。
 それにしたって本日の産形邸は、通夜の晩のような静けさだ。静寂を尊ぶ主に気を使い、使用人達は気配を消しているだけかもしれないが。いささか気づかいが行き届きすぎているような気もする。
 雨音と時計の秒針の音しか聞こえない、この異様な静寂。
 実はお父様と僕以外、産形邸には存在しないのでは――
 などと、ホラー作家の悪い癖で、ついつい空想の翼を広げてしまう。
 長い航海の船窓を眺めるような、代わり映えのない景色も相まって。こうしていると、なんだかお父様の部屋で――永遠にお茶を飲み続けているような錯覚に陥る。自分の馬鹿げた妄想癖に苦笑した。そんなことあるはずもないのに。
 もっともそれは今だけの話。妹が無事退院すれば家族三人水入らず、また以前の生活に戻れるだろう。
 今年、ようやく適合する心臓が見つかって、妹は病院で手術を待つ身の上だ。お父様の力添えがなければ、とっくにあの子はこの世にいない。お父様には本当に本当に――どれだけ感謝してもし足りない。
 僕の大切な妹。
 僕は、あの子を守るためだけにこの世に生を受けた。
 しかし、はて。
 愛しいあの子の――名前は何だったか――

「万里」
 お父様の呼び声が、一瞬前の疑問を霧散させる。
「パパのお膝においで」
 お父様はスーツの腕を広げ、小さい子にするように、もう三十路にもなろうかという息子を呼ぶ。
 僕は苦笑して、そのお膝に乗る。子どもの頃、本当にいたサンタクロースに、妹と二人でプレゼントをねだったあの日のように。
 お父様。実の親にも見捨てられた兄妹を顧みてくれた、世界で唯一の人。
 それにしたって――お父様はお歳を召さないのだろうか。
 まるで人ではないかのように。子どもの頃、初めて施設に現れたその日から、白皙の美貌は時が動いていない。僕はこの方の正確な年齢すら知らない。
「かわいい万里、パパにキスしておくれ」
 促され、頬にキスをする。
 もちろん、僕が怖いこと以外に興味の薄い、野暮天の朴念仁なのが一番の原因だが。子どもの頃からこの人と、一つ屋根の下に暮らしてきた僕の目は、だからこそ無駄に肥えてしまい――今更普通の女性と、普通に家庭なんて構えられる気はしない。
 だって僕は、仮にお父様と恋人が崖から落ちそうになっていたら、一瞬も躊躇わずお父様を助ける。もしも二人分の体重で崖が崩れそうになっていたら? ――迷わず冷酷に、恋人を崖下に蹴り落とす。
 迷うとしたら、お父様か妹かの二択を迫られたときだけ。それだって結局、両方とも助けようとして一緒に死んでしまうのがオチだ。
 家族と怖いことと執筆にしか本気の情熱を燃やせない――そんな男、僕が女性なら絶対に願い下げだ。
「……肉体という枷が滅びたとき、地獄からも見放された魂の行き場所は"控え室"しかない。しかし本番という役目を終え放棄された控え室では、どれだけ待とうと芝居の幕が上がることはない。永遠に変わらず、終わらない。それが私を満足させる。裏切られる献身、予想外の展開、思いも寄らぬ番狂わせ――作り話の三文小説ならばともかく、自分の人生なら、誰がそんなものを歓迎する?」
 お父様は額を押さえ、くつくつと笑う。大きな手で目元が隠れ、表情が伺えない。
「こここそが、ヘドロのような人生の終わりに得た、砂金の天国。ただし――私はコインを投げたりはしない。儘ならぬ浮世から、恣にできる彼の世へと流れ着いたというのに、なぜそんなことをする必要がある」
 よくわからない。
 お父様は一体、何を仰っているのだろう。
 父は背もたれにゆったりと身を預け、首を傾げた僕を見つめて満足そうにため息をついた。
「嫌と言うほど実感しているよ。所詮我々は『親にされたようにしか子を愛せない』と。私にできるのは支配、真実それだけだ。だがそれでいい。搾取されて裏切られる孝行息子役は、もう飽きた」
「お父様……?」
「ずっと父親になりたかったんだよ」
 お父様は聞こえていないように、どこか遠くを見るような目で続ける。
「まったく、くだらない言葉遊びばかりだ。完敗して乾杯した挙げ句、天狗の違算こそが、結局天狗(わたし)への遺産となった。どちらにおわすか存じませんが――左様なら、お元気で。私はあなたの忘れ形見で、父親ごっこと洒落込みます。ただし、あなたよりは達者にこなしてみせますが」
 もし、子が親にされたようにしか我が子を愛せないとして。
 お父様の父親が、お父様が僕にしてくださったように我が子を深い愛で慈しみ育てたのだとしたら。
 なぜ産形兆には、偲ぶべき遺影(かお)がないのだろう?
 思わず身震いする。まだ冷え込むような季節ではないのに、寒い。
「どうした、万里」
「わかりません、でも……恐ろしくて」
 不安に駆られ、そっとお父様の冷たい手を取る。
 秘して語られないエピソードとは、実際語る価値もない代物で。読者にとっては上梓された作品だけが全てなのだから。紙上に書かれていないことは、この世に存在しないのと変わりはない。
 間引かれた命と、最初から存在しなかった命――等しく生まれなければ、そこにどんな違いがあると?
 お父様は目を細め、麗容に笑みを刻む。
「大丈夫だ、万里。お前が裏切らない限り、私からお前を裏切ることはけっしてない。それはつまり、『絶対に大丈夫』だということだ。私達父子の間には、裏切りも手の平返しもけっして存在しない。お前だけだよ――私の自慢の息子は」
 その淡い微笑みの裏付けが、僕を無条件に安心させてくれる。
 お父様は、僕にとってかけがえのない素晴らしい父親だ。それでいいじゃないか。それ以上の意味は、僕達父子には必要ない。
 僕の顎を持ち上げて、お父様は笑った。
「退屈しのぎに、何か話して聞かせてくれ」
「そうですね、何を話しましょう」
 僕の問いかけに、お父様は皮肉に笑う。

「――お前の十八番の、血も凍る作り話を」

2020/06/13 Tumblr掲載
2020/11/16 LOG収納

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