HAMMER TIME
鉄条の囹圄×間男スレイヤークロスオーバー

 いつも通りのはずだった。
 いつものように間男をぶちのめし、いつものように平家の車に乗り込み、小腹が減ったと言ったら「エミちゃん先生のために、俺が夜食作ってやるよ〜」と言われて。安心して座席にもたれかかり、一眠りした――ところまでは覚えている。
「……どこだ、ここは」
 目覚めたとき、俺は一人で。
 景色は一変していた。

「通り魔?」
「明確にターゲットを選んでいるようなので、通り魔と呼ぶのも語弊がある気がしますがね」
 現在、犬釘市では、ちょっとした騒動が巻き起こっていた。
 表に出ているだけでも十数件、被害者は全員男。彼らは拉致された先で手足の指と歯を砕かれ――時にはそれ以上のえげつない拷問を受ける。しかし肝心の下手人は現場になんの痕跡も残さず、煙のように消えているというのだ。
 神父はそれをただの異常者ではなく、受荊者の仕業と判じた。
 かつて鉄槌同盟の長であった神父は、この街で受荊者が引き起こす出来事をほとんどすべて知っていた。
 だが栂野が更正した今、俺達が相手取っているのは、まったく未知の受荊者達。情報は一切ないし、油断は一切できない。
「巷じゃ間男スレイヤー、なんて言われてるな」
「まおとこ?」
 食卓に頬杖を突いた青緑の言葉に、しのぎがきょとんとする。『間男』という言葉自体に馴染みがないためだろう。今時聞かないもんな、そんな言い回し。
「他人の女房に手を出す男のことだよ。性別以外の被害者の共通点を調べたんだが――どうやら全員、無辜の市民ってわけじゃねぇ。過去か現在進行形で不貞行為に及んでいやがった」
「そうなんだ……だから間男スレイヤー」
 しのぎが嘆かわしい、とばかりに眉をひそめる。
 被害者という立場は、災禍に見舞われただけで手に入れられるものではない。でなければダーウィン賞なんていうブラックジョークはこの世に存在しないだろう。
「だったら犯人は、間男に恨みのある旦那さんとか家族じゃないかな?」
「ですが拉致や拷問の手口からして、あれらはすべて単独犯の仕業です。個人的な復讐にしては、ターゲットがあまりにも多すぎる。もちろん間男の被害者である夫や家族も調べましたが、誰も嘘をついている様子はない。むしろ彼らは、間男が制裁されて驚いていたくらいですよ」
「じゃあ何か、間男スレイヤーは、頼まれもしないのに勝手に他人の復讐を代行してるのか……?」
「そういうことになりますね」
 間男スレイヤーは、間違っても慈悲心からではなく。不貞行為への苦すぎる教訓、あるいは恥さらしの標本として、あえて間男を生かしているのか。……なるほど、怪談は登場人物が全滅したら伝わらないもんな。
 俺は唸りながら頭を掻く。
「なぁ神父。間男スレイヤーのこと、狩るつもりなのか? なんだか、あんまり乗り気になれないんだけど」
 なんとなく二の足を踏むのは、間男スレイヤーとブラザーフッドの行動原理が似ているからだ。
 傷つけられた誰かのために、あるいは、これ以上誰かが傷つけられないために。そういう動機で動いている人物と敵対するのは、それこそ鏡と戦っているようで、どうにも気が引ける。
 そもそもよそ様の家庭に波風立てる輩のために、俺達がわざわざ危険を冒しにいく必要はあるのか?
「だからといって捨て置けないでしょう? この街の棘はすべて回収し、いずれは無力化しなければならないんですから。抵抗感があるなら、そうですね……こう考えたらどうでしょう。間男スレイヤーが無辜の人を冤罪で傷つけてしまったりしないように、先んじてその棘を回収するんです」
「神父様、今まで誰か、無実の人が犠牲になったことがあったの?」
「いえ……そういうことはまったく。多分、棘の力で見わけられるんでしょうね……」
 今夜の神父は歯切れが悪かった。
 あからさまな下衆や悪党なら、ぜんぜん気楽なのだ。暴力は確かによくないが、それでも一定の正義や道理を有している相手とは事を構えづらい。
「ですが、法で裁けぬ受荊者ならともかく、相手はただの人間ですよ? 不貞行為は本来、訴訟や社会的制裁で決着を付けるべきです。理性的な解決方法があるのなら、人はそちらを選ぶべきだ。しかし間男スレイヤーはそうしていない。法に悖る行為なら、我々の一存で見逃す事はできません」
「言われてみればそうだなぁ」
 間男スレイヤーが単独犯なら、なんのストッパーもないということだ。いつかその独善が大暴走する危険性だってあり得る。
 ブラザーフッドの当面のターゲットは間男スレイヤーということで、その場は解散となった。

「神父、ちょっといいか」
「どうしました、をろく?」
 廊下で神父を捕まえる。
 しのぎの前でその名を口に出すのは、どうしても気が咎めたせいだ。
「……さっきの話、栂野にはしてあるのか?」
「ええ、すでに。彼も余暇を捜索に当ててくれています」
 ブラザーフッドと栂野は、未だ表立って行動を共にすることはない。
 俺は大分平気になったが、しのぎが栂野に根深い拒否感を覚えているためだ。どこまで行こうと、俺達は四人と一人の関係である。
 だが、どうすることもできない。こればかりは時間にどうにかしてもらうしかないだろう。
「なぁ、神父」
「はい」
「間男スレイヤーは、どうして間男をぶちのめすんだろう。仮にやつの過去に間男絡みのいざこざがあったんだとしてもさ。他人の復讐まで肩代わりすることに、なんの意味がある?」
「……そうですね。きっと、それが自分の責務だと信じているから、ですよ」
 それは、お前が償いに生涯を賭すと決意しているようにか? と。
 秀でた神父の横顔に、俺は聞くことができなかった。

「おかしい」
 数日後。
 食卓で指を組んだ神父が渋面を作っていた。
「おかしいんですよ。たった一人の受荊者がブラザーフッドの包囲網から、ここまで周到に逃げ隠れできるなんて考えられない。これだけ探して、手がかりの一つも見つけられないなんて……」
 ここに至るまで間男スレイヤーの正体も、正体に繋がりそうな手がかりすらも一切判明していない。
 唯一確実なのは「ひょっとこの面を付けている男」であること。後は「大男だった」「中肉中背」「背が低かった」「10代だった」「年寄りだった」――と、噛み合わない証言が出てくればましな方で、ほとんどの間男は心身に刻みつけられた恐怖のために、しゃべることすらできない有様だった。
 離れたところで張っている青緑や栂野にも見つからず、できたての犠牲者のみを残し、間男スレイヤーは煙のように消えている。
「なんだか……幽霊みたいだよね」
 そう言い、しのぎが、ぶるっと体を震わせた。
 少なくとも俺が間男スレイヤーに対して感じるのは、バイオレンスの恐怖ではない。
 本当に怖い怪談とは、「実は昔、この場所では……」が存在しない怪談だ。そこに居合わせただけで、正体不明なものに脅かされる――通り魔的な恐怖。
 古今東西。恐怖の根源とは、理解不能に帰結する。
 その時、不意に神父が外敵を察知した草食動物のように顔を上げた。
「……誰か来ましたね」
 少なくとも、チャイムは聞こえなかった。
 ブラザーフッドのアジトである教会周辺には厳重な結界が張ってあるため、一歩でも受荊者が足を踏み入れればすぐにそれとわかる。神父の固い声音からして、ただの来客であるはずもない。
「神父様! あれ……!」
 しのぎが何かを見つけて悲鳴を上げた。
 センサーライトに照らされて、不気味に浮かび上がる剽げた面――いつの間にか教会の庭に、フードを被ったひょっとこが立っていた。
 身長は俺と同じくらいか。だが、体は俺よりもぜんぜん厚みがある。そして恐ろしく姿勢がいい。黒いレザーグローブをはめたその手に、裁きの象徴たるハンマーを携えていた。
 まさかこれだけ探しても見つからなかった相手が、向こうから御出座するとは。
「不法侵入ですよ」
 神父は掃き出し窓から中庭に出て、夜空の下、闖入者に相対した。
「それは謝る。だが、この形(なり)で折り目正しく玄関からというのも変じゃないか?」
 ふざけた面の下から聞こえたのは、なんとも言えない美声だった。ブラザーフッドのメンバーも声に恵まれているが、そのどれとも本質的に違う、人の魂をわしづかみにする透明な声。
「こんばんは。あんた達、俺を探していたんだろう? だから、こっちから会いにきた」
 と、相手はいきなり普通に挨拶してきた。それは、初手で下手な恫喝をかまされるよりよほど恐ろしい。
 神父は警戒を解かず、ひょっとこと相対する。相手の死角で青緑はすでに《プレッパー》で作った拳銃を構えていた。
「わざわざご足労いただいて手間が省けましたよ。しかし、なぜここが……」
「なぜ? 尾行したからに決まっている。仕置きが終わった後の現場に、毎回子連れの聖職者が現れれば誰だって不可解に思うだろう」
 その何気ない物言いに、場の空気が凍り付いた。
 そもそも、なぜこの男は俺達を知っているのだ? 間男スレイヤーがブラザーフッドを認知したならば、こちらからも間男スレイヤーを見つけられないはずがないのに――
 俺達の反応を前に、相手が心底不思議そうに首を傾げた。
「……何度もニアミスしたじゃないか? 一度なんて狭い通路ですれ違ったことすらあるぞ。もしかして――あれは本当に気づいていなかったのか?」
「そんな、馬鹿な……!」
 巧妙に自分に繋がる手がかりを隠滅していたわけじゃない。俺達が、目の前にいる間男スレイヤーを悉く見逃していたのか。
 そして何より、この男の他人事のような口振り。恐らくは棘に付随するなんらかの能力だ。
「くだらない前置きは、なしでいこう。俺の棘は《ハンマータイム》。その能力は――ありとあらゆる道理をねじ曲げて、間男を絶対にぶちのめすことが可能だ」
 迂闊すぎやしないかとこちらが心配になるくらいストレートに、ひょっとこは能力を明かした。もちろん、それ自体がブラフでなければだが。
「嘘では――ないようですね」
「嘘なんかついてどうする?」
 確かに恐ろしい――が、この場では恐れるに足らない能力のように思えた。
 青緑はそんな不誠実な人間じゃないし、女の子のしのぎは論外。ましてや俺と神父は童貞だし――って、そんなことはどうでもいい。
「あのー、間男スレイヤーさん、でいいのかな? 一つ聞いてもいいか?」
 俺は緊張を解いてひょっとこに話しかけた。敵対しにきたわけではなく、案外、別件で用があったのかもしれないし。
「答えられる範囲なら」
「……あんた一体、何しにここに来たんだ? 変な話だけど、あんたから訪ねてこなければ、俺達はずっとあんたを見つけられなかったのに」
「そんなもの、間男をぶちのめすために決まっている」
 が、俺の期待を裏切り、ひょっとこは無慈悲なまでにきっぱりと告げた。
 グローブに包まれた指が示したのは――あにはからんや、神父。意外にもほどがありすぎて、拍子抜けする。
「い……いやいや、ちょっと待て! 誤解だよ。こいつは性格こそ終わってるが、神様と結婚してる生粋の童貞で」
「いいや、その男は他人の女房を寝取ったことがあるはずだ。わかるんだよ、俺には」
 問いかけではなく、ただの確認。
 俺はそこで、恐ろしい可能性に気がついた。神父が童貞であることと、間男であることは矛盾しない。
 なぜなら――
「ええ……認めます。かつて、愛を解さぬ義堂禮だった頃に……私は数々の不貞行為に及んだ」
 顔色を失った神父は、慚愧に堪えないといった様子で認めた。
 考えてみれば義堂禮とは、人の繋がりは本質的に無意味で無価値であることを、人生を賭して証明しようとしていた男だ。愛と信頼を壊すためとあらば、喜んでなんでもしただろう。
 だがそれは、一体『いつ』の話だ? どう足掻いても、こいつの知りようがない話だろう。
 かつて間男だったもの、今現在間男であるもの、そしてこれから間男になるもの。間男スレイヤーに時効はないのか? 一切の悔い改めは通用しないと?
「俺は子どもの頃から『ごんぎつね』が嫌いでな」
 ひょっとこは神父の自供にさしたる反応は示さず、ハンマーの釘抜き部分で肩を掻きながらそんなことを言い始めた。
「は? ごんぎつね……? あの、最後に狐が撃たれるやつ?」
「そう、ごんぎつね。あんなのでしんみりしてる奴らの気がしれなかったし、しんみりしなきゃ冷血の人でなしとでも言わんばかりの同調圧力も大嫌いだった」
 着地点がまったくわからない、浮き足だった空気の中。ひょっとこは淡々とした美声で続ける。この場に自分しかいないかのような語り口は、相槌さえ求めていないように見えた。
「動物を見下して、四つ足・畜生呼ばわりするのは度しがたい人間の傲慢だと思うが。あれに限って言えば、なんとも『畜生』らしい物語だ」
 畜生とは動物への蔑称に限らない。
 それは一般に、愚かで卑劣なものに対する蔑称だ。
「畜生は、償い方まで畜生並なのは無理もないことだ。取り返しが付かないほど誰かを傷つけてしまったとき、必要なのは上辺のご機嫌取りじゃない。ろくでもない自分を変えることだろう? だがどうだ。ごんの本質は最後までずる賢い狐のままじゃないか。悲しいすれ違い? 馬鹿を言うな。意思疎通も図らず、こそこそ貢ぎ物だけして何が償いだ。結局あのお話の教訓は、畜生は改心しようとも、それは所詮『悔い改めた畜生』でしかなく、人間とは本質的にわかりあえない――そういうことだろ? 作者の意図とは違う解釈をするという自由が、読者に許されているのならば、だが」
 冷めた声が唾棄する。
 しかしそこに宿るのは、おとぎ話を腐すことでちんけな優越感を満たそうとする、幼稚なシニシズムじゃない。この男は潔癖だからこそ、涙という目眩ましに隠された欺瞞が許せないのだ。
「さて、それを踏まえてお前の被害者達は、今のお前を見てどう思うだろうな。立派に更正してよかったね、とでも? 私は反省し、無関係な他人をこれだけ助けました――だからなんだ? そんなこと、お前の被害者達に何の関係がある? 言い訳だよ、アリバイだよ。お前の善行なんて、狐野郎の自己満足の貢ぎ物だよ。血で洗い流すのが嫌だから、徳を積んでいるだけの話だろうが?」
 やつの得物は、もはや皮肉としか言いようのない――鉄槌(ハンマー)。
 くる、ぱしん。
 くる、ぱしん。
 くる……ぱしん。
 ひょっとこが、手首でハンマーの柄をくるくると回す。F1がアイドリングをするように。トップスピードを『叩き出す』ためのエンジン始動。
「俺は普段、命までは取らない。それこそ、生きて死ぬほど反省してもらわないといけないからな。だが困ったことに。指は二十本、歯も二十本」
「……」
「簡単な算数のお勉強だ。万死に値する罪に対し、俺は四十本しかないお前の指と歯を何度砕けばいい? ヘミングウェイ・キャットやかたつむりじゃないんだろう。ちと数が合わないよな?」
 数え役満、と面の下で美声が囁く。
「俺の罰は重くも軽くもない。きっかりお前の罪と釣り合う重さだと保証しよう。だからここで死んでもらう――It’s hammer time!」
 死刑宣告と共に間男スレイヤーの姿がかき消えた――ちがう、あまりにも踏み込みが速すぎる!
 俺達全員が反応できずにいる間に、間男スレイヤーはハンマーを神父の側頭部にぶちかましていた。
「神父様ぁ――ッ!」
 しのぎが絶叫する。夜空に、鮮血の花が散った。
「――ッ!」
 頭蓋の陥没は避けたものの、頭皮が切れたのだろう。血が噴き出し、神父の片目が塞がれた。
 《スクトゥム》で咄嗟にかばってこの威力。何より神父の動きが――鈍い!
 妙だと思っていたのだ。あの口の減らない神父が、間男スレイヤーの罵倒にはどこか呆然としたまま、一切反論すらしなかった。
 間男スレイヤーの言っているのは、根も葉もない言いがかりではない。ましてや自分が蒔いた種で受荊者になった男が、自分を断罪しにきたのだ。いつだって神父を鈍らせるのは、過去の負い目。神父は今、狂気(せいぎ)の鉄槌に抵抗するための根拠を失っている!
 間髪入れず振り上げられるハンマー。今度は外さないとばかりに、血に濡れたそれが鈍く輝く。
「させるかッ」
 即座に青緑が銃を構えるのを、神父が制した。
「青緑ッ、急所は!」
「わかってる!」
 言葉が終わる前に、マズルフラッシュが凄烈に輝く。
 が、間髪入れず青緑の放った9mm弾は、あらぬところに消えていった。青緑の腕前ならこの至近距離で、狙った的を外すわけないのに。
 間男スレイヤーは何事もなかったかのように、神父との距離を詰めていく。
「な――」
 当たらなかったとはいえ、目の前で発砲されたんだぞ? 普通の人間なら竦んで固まる場面だろう。
 二発、三発、四発――弾丸は当たらない。ありとあらゆる道理をねじ曲げて、間男スレイヤーの歩みは止まらない。
「をろく、ぼけっとするな!」
「――W蒼天穿て、天馬の軛!W」
 神父の言ったように、この男を殺す必要はない。ただ動きを封じればいいのだ。
 間男は法で裁けぬ受荊者とは違う。その行いは暴力ではなく、民法と社会的制裁によって裁かれるべきだ。だが少なくとも間男スレイヤーは罪のない人を無差別に傷つけているわけではないし、人を殺めてもいない。その行動には一定のルールがある。
 そんな人間を「自分達に都合が悪いから」なんて理由で始末してしまったら、それこそ鉄槌同盟と変らない。
 この男をなんとか生きたまま無力化する。話はそれからだ。
 俺の軛は、ひょっとこを傷付けずにその場に釘付けにした――はずが。
「ふんッ」
「――ッがぁ……ッ!?」
 不可視の拘束をものともせず、神父の肩口にハンマーが振り下ろされる。鎖骨が砕ける儚い音が俺の耳に突き刺さった。
「嘘だろぉッ!?」
「をろくッ」
 青緑の声に込められた意図を察し、俺達は気息を合わせて地を蹴り、間男スレイヤーの左右から同時攻撃をお見舞いした。
 絶対に避けられない挟み撃ち。仮にどちらかを避けても、どちらかの攻撃は必ずヒットする。
 ――だが。
「なッ!?」
「うわぁッ」
 俺達は不自然に、その場で転倒した。まるで見えない手に背中を押されでもしたかのように。
 致命的な隙をさらした俺達に――追撃は、こない。面に開いた穴の奥。その目はあくまで神父(まおとこ)一人に据えられている。
 ぞっと、ある予感に背筋が総毛立つ。
 まさか、こいつ……!
「操作してる……のか」
 かつて栂野と戦ったときに感じた、事象のすべてが主を勝たせようとする指向性。ごく限定的だが、それに近いものを感じた。
 一撃で神父を殺せていない時点で、間男スレイヤーの膂力は人並みだ。普通にやり合えば神父の敵じゃない。しかし間男を退治するという一点においてのみ、この男は無敵と化す。
 やばい、このままでは神父が殺される――!
 その時、視界の端で小柄な影が動いた。
「――神父様! わたしの後ろにいて。なんとなくだけど、あの人……子どもには手を出せないと思うから」
 言いながら、しのぎが満身創痍の神父の前に立ちはだかった。
「……しのぎさん、よしなさい。これは私の自業自得なんですよ」
「だとしても! 神父様を守るのはわたしの自由だよ! お願いだから、しっかりして! このままわたし達の前で、みすみす殺されるつもりなの!?」
「……ッ」
「生き残らなきゃ、神父様の信じる償いだって果たせないよ!」
 間男スレイヤーが刻一刻としのぎとの距離を詰める間も、俺達の足払いは避けられ、押さえ込もうとした手は空を切る。
 神父を守ろうとする俺達の願い。それを後押しするはずの女神の加護は、沈黙を保ったまま。それは《テュケー》が「間男スレイヤーを止めることは、荒唐無稽であり不可能」と判断したからだ。なんの冗談だ――直進するだけの男を、二人がかりでも止めることができないなんて!
 そしてとうとう、間男スレイヤーはしのぎの前に立ちはだかった。
「頼む、そこをどいてもらえないか?」
 びっくりするくらい優しい声だった。もう少し愛想がよければ、教育番組のお兄さんでも務められるだろう。
 しのぎは臆せず、きっ、とひょっとこを睨み付ける。
「どかない……神父様は傷付けさせない!」
「なぁ、いたいけな子どものお願いは聞き入れられて当たり前、という思い上がりはよくないぞ。子どもという切り札は、一秒ごとに値打ちを失っていく。若さにあぐらをかいたところで、俺達は昨日より確実に老いているんだ。そうして正しいアプローチを学ばないまま、子どもと呼ばれない年齢に達したとき。君は癇癪以外のどんな方法で、人生の問題に立ち向かうつもりだ?」
「うるさい、黙ってよ! もっともらしいことを言いながら神父様を殺すくせに……! あなたのお説教なんて聞きたくない!」
 間男スレイヤーは、困ったように立ちすくむ。
 それを好機と見たのだろう。しのぎが耐えかねたようにまくし立てた。
「あなたは正しいのかもしれない……それでも、はいそうですかで仲間を差し出せれば苦労しないよ! 人間は弱いなんて、使い古された言い訳で、すべてが許されるとも思ってない。だけど……罪を認めて償っている人すらも、更に痛めつけられないといけないの……? あなた自身にひどいことをしたわけでもないのに!? 一体何様なの――何の権利があって他人の憎しみを代行してるの!?」
 しん、と辺りが静まり返る。
 そんな場合ではないのは重々承知しているが、俺は興味があった。この男がしのぎの問いに、なんと答えるのか――
「無念」
「え……」
「俺は誰にも顧みられなかった、無念の代行者なんだ。もし君自身や君の大切な人が理不尽に虐げられ、加害者がなんのお咎めもなく高笑いしているとき。きっと思うんじゃないか――誰でもいい、代わりに自分の無念を晴らしてくれと。その誰かが、俺だ」
 きっと俺だってそう思う。大切なものを踏みにじられて、まぁしかたないかで済ませられるはずがない。悪党に対する正義の鉄槌がほしいと切実に願うはずだ。
 古今東西、数々の物語が証明しているじゃないか。
 ヒーローだけでは駄目なのだ。俺達には晴らせぬ恨みに寄り添ってくれるアンチヒーローが必要で。その納得感こそが、この男に強烈な説得力を与えている。
 ぞるり、と。
 ひょっとこの背後から黒い影が湧き上がり、しのぎが短く悲鳴を上げた。それは恐らく――かつて義堂禮だった神父によって、踏みにじられた魂達。
「その男の償いは果たされていないんだよ。どれだけ無関係な他人を助けても無駄だ。他人に与えたダメージを、無関係の誰かへの施しで埋め合わせられるという考えがそもそもおかしいんだ。ましてや被害者がとうにこの世を去っていれば、加害者の罪が帳消しになるなんて。そんな都合のいいことがあり得ると思うか?」
 この男の、不屈の魂。それは自分の行いを疑わない者の強さだ。傷だらけの神父は、それを持ち得ない。
「どいてくれないなら、しかたない」
 間男スレイヤーが一歩踏み出すと、しのぎが下腹部を押さえた。間男スレイヤーは依然、しのぎには指一本触れていない。
「痛……ッ、何……?」
 じくじくと、しのぎのタイツを黒い何かが伝う。
 夜目に黒く見えたそれは――経血だ。
「あ――うそ……、や、やだ――ッ」
 自分の身に起きていることを理解したしのぎの顔が、滴る血よりもなお真っ赤に染まる。
 《ハンマータイム》は、間男をぶちのめす――あらゆる道理をねじ曲げて。
 それは一切暴力を振るわず、体に影響を与えて無力化することも可能なのか。
「すまない」
「ふ、え……」
 しのぎはその場にうずくまって泣き出してしまった。当たり前だろう。仲間の前で、そんな姿を見られて平然としていられるわけがない。
「お前……最ッ低だぞ! 女の子を泣かせて、これが正義だとでも宣うつもりかよ!?」
 これには俺も怒髪天に達した。もっともこの狼藉に怒り狂っていないやつなんて、俺達の中で一人もいなかっただろうが。
「言い訳はしない。もっとスマートな方法を思いつかなかったのは、ひとえに俺の落ち度だ」
 ひょっとこが、さらりと抜かす。
 引き千切るように脱いだカソックを泣きじゃくるしのぎにかけてやる神父の目に、はっきりと怒りが燃えていた。俺は更に発破を掛ける。
「おい神父、今なら戦えるだろ! 30――いや、15秒でいい! 時間を稼げ!」
「……ええ、わかりました。しのぎさんに恥をかかせたとあってはね……加減できる気がしませんよ!」
 言いざま、神父のシャツの袖口から鉄条網が飛ぶ。
 そう、神父は自身の負い目に縛られても、守るべきもののためなら立ち上がれる。間男スレイヤーのしたことは、返って神父を奮起させただけだ。
 それでもひょっとこ面が動じないのは、そんなもの、なんの抵抗にもならないと知っているから。
 360度から、いっさんに間男スレイヤーに襲いかかった鉄条網が見えない壁に当たったかのようにねじ曲がり、すべて弾け飛んだ。
 断罪者は間男の足掻きを許さない。攻撃力も身体能力も、神父の方が上だろう。だがこの男は止まらない――止められない。
 だからもう、あいつにどうにかしてもらうしかない。
 神父と青緑が時間稼ぎしている間に空中に魔法円を描く。ソロモン72柱が一柱、地獄の大公爵バティン――その能力は瞬間移動。
「――栂野ッ!」
 アパートの壁から姿を現した俺に、栂野は、ぎょっとして洗いかけのコップをシンクに落とした。
 だがさすがと言うべきか。すぐに緊急事態を察したらしい。その手に波末佐々介が現れる。
「何があった」
「説明してる時間が惜しい、このままじゃ神父が殺される!」
 そう、もはや《ハンマータイム》自体を、栂野の《ネメシス》で無効化してもらうしか手がない!
 俺は栂野の手を引っ張って箒に乗せ、再び教会の庭――その上空に瞬間移動した。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!」
 急降下に凄まじいGがかかる。
 間男スレイヤーが俺を傷付けられないのは、先ほどの一幕で確認済みだ。殴ろうと思えば殴れたのに、奴はそうしなかった。そのハンマーは、間男以外に振るわれることはない。
 栂野を箒の後ろに乗せたまま、神父達の間に突っ込む。
 波末佐々介の鯉口を切りながら栂野が吼えた。
「棘を摘むな! 死ぬぞ、義堂ッ!」
 鞭打つような声に、神父がバク転で距離を取る。
 そう、通常受荊者同士の戦いは、棘を奪うか無力化すればゲームセットだ。だが《ハンマータイム》を奪ったが最後、間男である神父は内側から棘に侵されて絶命してしまう。……なんて恐ろしい棘だ。神父を殺すためだけに存在しているようなもんじゃないか。
 闇に映える銀の三日月――抜き放たれた波末佐々介がきらめいた。
「はぁッ!」
 栂野は箒を蹴り、防御不能の上空から間男スレイヤーに斬りかかる。
「――ッ!?」
 だが、波末佐々介は間男スレイヤーの脳天に触れるやいなや、中程からぽっきりとへし折れた。刃は銀の軌跡だけを描いてどこかに吹っ飛んでいく。
 驚愕と着地の硬直が生んだ一瞬の隙。ひょっとこは悠々と――ハンマーを栂野の横面に叩き込んだ。
「ガッ……!」
 仰け反った栂野が教会の庭を転がる。歯が折れたのだろう。血反吐と共に大臼歯らしきものを吐き出した。それでも追撃が来る前に距離を取れるのは、さすがと言うべきか。
「やれやれ――また間男のご登場か」
 今しも人の顔面にハンマーを振り下ろしたとは思えない、どこまでも涼やかな声に戦慄する。
 考えてみれば当たり前じゃないか。絶望した栂野が義堂禮の足跡をつぶさになぞったとすれば、その悪行もそっくりなぞっているわけで。間男スレイヤーからすれば、ただ狩るべき獲物が増えただけのこと。
「間男のフレンズ同士、傷でも舐め合っているのか? 麗しいご友情だ。お手々繋いで三途の川を渡っていけよ」
 圧倒的な正論を片手に、けっして歩みを止めない断罪者。
 ……怖すぎる。俺達のしていることを受荊者の視点から味わうと、こんなに恐ろしいのか。
 いや、待て、ちょっと待て……。
 ありとあらゆる棘を無効化する《ネメシス》、ありとあらゆる道理をねじ曲げて、間男を絶対にぶちのめす《ハンマータイム》。
 この場合優先されるのは、普通に考えれば主人公である栂野のはずなのに。
 なのにどうして、こんなに不安なんだ……?
「わからないか、ナヴィガトリア」
 俺の動揺を気取ったか、栂野が血をぬぐいながら低く言う。
「……こいつ……"主人公"だ」
「!」
 まるで禁句のように、栂野はその名を口にした。
 主人公。それは俺達の間において、呪いにも似た意味を持つ言葉。間男スレイヤーもまた、どこかの物語の主人公だったのか。
「あなた――この世界の人間ではないのですか――?」
 神父が、あっけにとられたように口を開く。ひょっとこは肩をすくめて見せた。
「どうもそうらしい。俺の知る限り『犬釘』なんて街は存在しないし、俺の認識でこの土地は『横浜』と呼ばれているはずだ。目が覚めたらここにいて、スマホもクレジットカードも使えない。おまけにアパートの住所は更地ときた。途方に暮れたよ。だが、すぐに棘が芽吹いた」
 ぎゅう、とレザーグローブが不吉に鳴る。
「《ハンマータイム》――便利なもんだ。街を歩いていても、誰が間男なのかが手に取るようにわかる。そうして制裁ついでに間男から金を奪って、かれこれ一週間ばかりこっちで寝起きしている。元の世界に戻る手がかりを探しながらな」
 その何気ない言葉の中に、俺は活路をみた。
 ブラザーフッドは、間男スレイヤーを倒せなくてもいい。要するにこの脅威を元通り、遠くの世界に追いやれればそれでいいのだ。
「なぁ、あんた! 取り引きしないか?」
「取り引き?」
 俺の提案に、ひょっとこが小首を傾げた。ひどく滑稽なはずなのに、ぜんぜんそうは見えない。
「俺なら多分、あんたを元いた世界に帰せると思う。だから――!」
「だから、仲間は見逃せと? お前、俺を舐めてるのか」
 しかし期待は、底冷えのする声に切り捨てられた。それとこれとはまるで無関係だと、黒い穴の奥が言っている。
「逆に聞くが。俺は、どうしてここにいるんだと思う?」
「え……」
「理由がなければ、呼ばれない。hammer time(お仕置き)が必要な誰かが、ここにいるからだろう? そして間男を全員ぶちのめせば、俺は元の世界に帰れるんじゃないか? 間男のお仲間である、お前の力を借りるまでもなく」
 かつて俺が『鉄条の囹圄』に呼ばれたことには、確固たる理由が存在した。
 まさか本当に神父と栂野をぶち殺すまで、この男は元いた世界に帰れないというのか……?
「あいつが心配してるんだ……だから……一刻でも早く向こうに帰りたいんだよ、俺は」
 ぼそりと漏らされた、どこか力ないつぶやきに。俺はおよそ人間味のない男の、偽らざる生身の心を見た。
 だがそれはすぐに、面の奥へと隠れてしまう。
「元の世界でも、妙に間男退治のはかが行き過ぎる、と感じる場面があった。俺の友人は冗談交じりに『モーゼのように』と評したが。それがここに来て、目に見える形で開花した感じだ。それはつまり、ここでやるべきことをやれってことだろう?」
 ……主人公補正だ。それが棘の力でより精確かつ、明確になったと。
 かつて神父は、一点特化型の棘は怖いと語った。
 だが何より恐ろしいのは、懐柔や説得にも微動だにしないこの男の精神の在り方だ。揺るがない、付け入れない、そして絶対に止まらない不屈の男。
「これが誰の差し金かなんて、どうでもいい。ジョージ・マロリーと同じだ。そこに間男がいれば、俺は問答無用でぶちのめす」
 こいつは恐らく下衆ではない。しのぎに恥をかかせたのは許しがたいことだが、子どもに暴力を振るいたくないという一念から出た行為なのはわかる。現に間男ではない俺や青緑には、一切手出しをする様子がない。
 けれど、一度己の倫理という逆鱗に触れたが最後、やつは一瞬で行動に移す。
「この世は作用と反作用。コーヒーに溶かした砂糖だけを、スプーンですくえるわけないだろう。人は飲み干さなければらないんだ――選択にまつわる苦い後悔を、その甘い報酬とともに」
「殺すなら、俺から先に殺してくれ」
 死刑執行人を前に、毅然と前を向いて。静かに栂野が口を開いた。
「ただし義堂を殺すのは、必ず俺が死んだ後だ。俺が死なない限り、義堂には手を出すな」
 そう、栂野は死なない――いや、死ねないのだ。
 特に、よそから襲来してきた他の物語の主人公に虐殺されるなんて、あり得ない。それはかつて本気で殺し合った、俺が一番よく知っている。
 さぁ、血の一滴も流さずに肉を切り取れ。栂野が死なない限り神父は無事だ。文字通り、万死を与えられようとも。
 だがそのために栂野は文字通り、間男スレイヤーに万回命を差し出すつもりでいる!
 しのぎが何かを言いかけて――手を下ろした。
 栂野がしたことと、しのぎがされたこと。それが喉につっかえて、どうしても今、栂野にかける言葉が出ないのだ。
 神父が顔色を変えて叫んだ。
「栂野、やめなさい! そんなこと誰も望んで――」
「黙ってろ! 誰も何も言うな!」
 それだけで、栂野が何を考えているかわかったのだろう。神父は口を閉ざした。
 可能と実行可能の間には、大きな隔たりがある。
 間男スレイヤーの膂力は人並みだ。いくら間男とはいえ、死なないものを無限に殺し続けることなどできはしない。奴はいずれ思い知る。栂野というこの物語の正当な主を、殺すことはできても殺しきることは不可能だと。
「いいだろう、約束は守る。お前が死んだ後にあの神父。必ず順番はこの通りに」
「……ああ」
 栂野は斬首されるように、膝を突いた。
 なぜ俺達は、この土壇場で誰一人動こうとしないのか。
 栂野一人を生贄に捧げ、自分達の保身を図るため? 俺達をさんざん苦しめ辱めた極悪人、ここでツケを返してもらおうって?
 ――ちがう!
 間男スレイヤーは知らないからだ――栂野に《ネメシス》という最強の切り札があることを!
 今、間男スレイヤーは、波末佐々介こそを栂野の棘だと決めてかかっている。これは《ネメシス》の有効範囲内に、自ら足を踏み入れさせるための罠だ。
 卑しいなんて思わない。誰かを守るためならば、蛇の狡猾だって使いようだ。
 案の定、何も知らない間男スレイヤーは、無防備に栂野の間合いに足を踏み入れる。
 そして無抵抗の栂野に、躊躇なくハンマーを振り上げた瞬間。
「――ッ!」
 狙い過たず《ハンマータイム》は儚く消し飛び――しかし、振り下ろされた鉄槌を防げるはずの栂野の額はたたき割られ、血が噴き出した。
「ごッ……!?」
「栂野――ッ!」
 神父の絶叫の中、栂野は地に伏し痙攣する。芝生が血潮で赤く染まっていく。
「騙されるわけないだろう――お前ら間男は、卑劣な畜生だからな」
 すでに受荊者ではなくなった男の、見下すような声が冷たく響いた。
 面に返り血を浴びて、間男スレイヤーは微動だにしない。その落ち着きようは到底、棘を失った受荊者のそれではなかった。
 なぜだ。《ハンマータイム》さえ消してしまえば、徒人に過ぎない間男スレイヤーにはもはや、俺達に害はなせないはずだろう?
「因果が逆なんだよ。俺に本来備わっているものを、この世界の道理でそうやすやすと消されてたまるか」
 『鉄条の囹圄』の中で消すことができるのは、『鉄条の囹圄』で通用する道理だけ。栂野だとて、他の物語を操作する権限はない。
「棘なんかなくたって、俺は間男には負けない」
 なぜならこいつは、そういうものだから。そう書かれてしまったから。
 一瞬、ひょっとこの面に誰かの面影が重なって見えた気がした。優しそうな、眼鏡の中年男――
「なぁ、主人公? お前が俺の鉄槌で死ぬはずはないと自惚れているのなら――試してみるか? 一日中付き合ってもいいぞ」
 冷ややかな声音に、思い知らされる。
 こいつは栂野の企みに、とっくに気がついていた――!
 俺と栂野の間には、韮谷兄弟という因縁が存在した。
 だが間男スレイヤーは、なんの縁もゆかりもない物語の主人公。間男をぶちのめすという絶対意志の権化を相手に、栂野ゐちが死なないなんて――誰に保証できる? 未知の敵を相手取るのは、これが初めてなのに? どうして以前の理が今回も適用されると?
「……やってみろよ」
 栂野の震える手が、間男スレイヤーの足首を掴む。
 血まみれの顔の中で、しかしその目は屈していない。守るべきもののために、負い目を背負ったまま立ち上がるその姿は、まるで、なぞり返すようで。
「ただし約束は違えるな。俺の後に、義堂だ。俺が死ぬまでは――けっしてあいつに手は出させない……!」
 ひょっとこが無慈悲にハンマーを振り上げた。
 もしも主人公である栂野が殺されてしまったら、『鉄条の囹圄』はどうなる?
「やめろぉ――ッ!」
 降って湧いた外敵のせいで、物語が無残に壊れてしまう。かつて栂野が抱いただろう恐怖を、俺は今、我がこととして味わい――

「エミー!」
 突如どこからか響いた大声に、間男スレイヤーの動きが不自然に停止したかと思うと、勢いよく背後を振り返った。
「平家……!?」
「やっと見つけた〜! どこにいたんだよお前はよ〜!」
 長身の金髪男が教会の垣根を乗り越え、一目散に駆けてきた。
 あっけにとられた俺達の前で、平家と呼ばれた男は臆することなく間男スレイヤーを抱きしめ、おいおいと泣き始めた。
「よかった〜、無事でよかったよ〜! ケガしてないか!? 腹減ってないか!?」
「お前も、ここにいたのか……」
「スマホもクレカも使えないし、なんだよここはよ〜! ネカフェで暮らすのにも限度があるだろ〜! ぶええ……」
 間男スレイヤーは半泣きの男に抱きしめられたまま、しばらく無抵抗でされるがままになっていたが、はっとしたように金髪の肩を掴んだ。
「俺を見つけられたってことは、お前も棘に目覚めたのか?」
「は? 棘ってなんだよ。とげぬき地蔵に『エミが見つかりますよーに』ってお願いしたって?」
「あ、いや……なんでもない」
「お前〜、俺の職業忘れたのかよ! こちとら探偵やってんだぞ、自力で探したんじゃい!」
 そう――こじらせていない人間は、犬釘市においても受荊者にはならない。
 つまりこの男は突然連れてこられた別世界で、棘にも頼らず執念のみで間男スレイヤーを見つけ出したと? なんてやつだ。よほど強い絆と信頼がなければ、そんなことできるはずがない。
「つーか、感動の再会だろ! いつまでもひょっとこつけたまま会話してんじゃねー!」
「あ」
 面を毟り取ると、その下から整った顔が現れた。双眸に危惧したような狂気はなく、傍目にも困惑しきっている。
 顔を見たことで余計にこみ上げるものがあったのだろう。平家探偵はまた泣けてきたらしい。
「うう〜、エミ〜、よかったよ〜……」
「そんなに泣くなよ、平家……」
「あの、お取り込み中すみませんが……我々にもわかるように説明していただけませんか?」
「へ?」
 神父に声を掛けられ、ようやく周りを見るだけの余裕が戻ってきたのだろう。
 けが人が二名に、泣いている女の子。ここで何が行われようとしていたか、平家探偵は一瞥で察したらしい。途端に間男スレイヤーをジト目で眺める。
「……つまりなにか。俺が半泣きでエミを探し回ってる間、お前は目先の間男退治に夢中だったと? へ〜」
「ま、まさかお前までこっちに来てるとは思わなかったから……スマホも通じなかったし」
「エミ」
「聞いてくれ、平家。こいつらは間違いなく間男だ。だから退治しなきゃならない」
「ほーん、そうかそうか。で、依頼は? サイドキックであるこの俺を通さず、一体どこの誰から受けたんだ」
「……依頼?」
「この稼業を始める前に約束したはずだよな? 依頼は必ず俺を通せ、それ以外で間男退治はするなって。忘れたのか?」
「でも俺にはわかるんだ! こいつらは――」
「エミ!」
 平家探偵の鋭い叱責に、間男スレイヤーが息を飲む。
「お前にとって間男退治は、ライフワークであって趣味じゃないだろうが! そのためには『依頼を受けて報酬を受け取る』というプロセスが絶対に必要なんだ。そこを度外視したら、それこそ通り魔と変わらねぇぞ!」
「けれど、無念が――」
「無念ってなんだよ。じゃあ聞くが、そいつらはお前の行いに正当な報酬を払ってくれるのか?」
 痛いところを突かれたのだろう。間男スレイヤーは、ぎくり、と体を強ばらせる。あからさまに目が泳いでいた。
「いや……死んでいるから、支払い能力は……ない」
「は? まさかかわいそうな亡者のために、ただ働きしろって? 冗談じゃね〜! ボランティアやってんじゃないんだぞこっちは! いいか、金は目に見える誠意だ。金が払えない人間の泣き言に、お前が耳を傾ける必要はない」
「でも……」
「お涙ちょうだいで他人様を顎で使おうってのは、元来おめーが一番嫌いな手合いだろうが! ちがうか!?」
「……ちがわ、ない」
 消沈した友の様子に平家探偵はため息をつき、間男スレイヤーの肩を揺さぶった。
「……エミよぉ、お前ちょっとおかしいぜ。なーんかエミらしくないし。きっと一人で心細くて、判断力低下してたんじゃねぇか?」
「……そうか。俺らしくないか……そうか」
 異様な光景だった。
 本来攻撃力で遠く及ばないはずの神父や栂野を圧倒した間男スレイヤーを、更に攻撃力に乏しそうな男が舌先三寸で完全に圧倒しているのだから。
 ましてや俺達の目には一片の迷いもない行動にしか映らなかったそれを、平然と「彼らしからぬ」と言い切る。なら一体、普段のこいつはどんなやつなんだ……。
「この人達に迷惑掛けたんだろ? 謝って」
「……平家、あの」
「謝って!」
「ご迷惑をお掛けしました、ごめんなさい……」
 間男スレイヤーは観念したように頭を下げた。
 その姿は飼い主に叱られたフクロウを思わせる……そんなの見たことないけど。
「うちの我妻が多大なご迷惑をお掛けして、まことに申し訳ありません! こいつの友人として、心からお詫びします!」
 続けて平家探偵も腰を折り、深々と俺達に謝罪した。こいつにもこんな風に一緒に謝ってくれる友達がいるのだと、俺は妙に感心してしまう。
 思いがけない謝罪を受け、神父は面食らったように手を振った。
「いえ、いいんですよ。どうぞ頭を上げてください。こちらも、あらぬ言いがかりではないんですから」
「そう言っていただけると助かります。我妻のことは、後できちんと指導しておきますので……」
 金髪眼鏡の外交官二人が頭を下げ合う中。
 文字通り、面が外れてしまったのだろうか。間男スレイヤーはすっかり覇気を失って、ただのフクロウになっていた。

 和解に際し、神父の出した条件は一つだけで、しのぎに対して我妻からきちんと謝罪してもらうこと。栂野もそれで異論はないとしたので、双方手打ちになった。
 我妻はそこでも平家探偵に「お前デリカシーなさすぎ! サイテー!」と怒られ肩を窄めていたことを付け加えておく。
 俺の舟は、二人を送り届けるために星の海を征く。
 航海の間は暇なので、背後の会話を聞くともなしに聞いていた。
「はー、やれやれ……散々な一週間だったなぁ」
「悪い、お前にも迷惑を掛けた……約束も破ったし」
「エミのせいじゃないし、もう怒ってないっての」
 舟に腰掛け、すっかり消沈して頭を下げる我妻に、平家探偵は苦笑を返す。
「……俺さぁ、ずっと不安だったんだよ。結局、俺はどう足掻いても、エミの一番の理解者にはなれやしないんだって」
「え?」
 よほど予想外のことを言われたのか。我妻が顔を上げる。平家探偵は星の海に指を遊ばせながら、真剣な顔で言った。
「これ、初めて言うけど。おじさんは、お前がいずれこうなるってことを見越してた。それをわかった上で――俺に託したんだ。笑彦を見放さないでくれって、さ。親ってすごいよなぁ……」
「……親父が、そんなことを」
「おじさんと張り合うつもりはないんだけど、どうしてもな。俺は、いい意味でも悪い意味でも凡人だから。お前の――言い方は悪いが闇の部分は、理解できる自信がないや」
「……」
 再び視線を落とした我妻に、「でもな」と平家探偵は笑う。
「やっぱお前は一人にしたら駄目だわ! 俺はお前のすべてを理解してるわけじゃないし、この先理解できる日もこないかもしれない。けど、それでもお前のサイドキックが務まるのは俺だけだって、今回のことでよーくわかった! だからもう、悩むのやめる!」
「……ありがとう」
 能面にようやく人の血が通ったかのように。笑み綻んだその顔は、別人かと思うほど鮮やかに見えた。
 俺は彼らの会話の半分も理解していない。この先もすることはないだろう。
 しかし我妻が頑なに俺達の言葉に耳を貸さなかったのは――もちろん性格もあるんだろうが――安心できる納屋に一秒でも早く帰りたくて、焦っていたからではないか。
 俺は櫂を繰りながら、飼い主と引き離され、見知らぬ土地で凶暴化するフクロウの姿を想像した。

「はー、危機一髪だったな……」
 二人を『間男スレイヤー』の世界に送り届け、『鉄条の囹圄』に帰還して、俺はようやく人心地着いた。
 平家探偵が来てくれなければ、俺達にあのモンスターに対処する方法はなかった。今更ながらに、そのことがたまらなく恐ろしい。
 しかし、ぶん殴られた張本人はあくまでも泰然自若とした様子だ。
「別に対処不能だっていいじゃないですか。本来なら出会うはずもない人物なんですから。ましてやどちらが強いかだなんて、張り合うこと自体が馬鹿馬鹿しい」
「そうだよな。別に災害に勝つ必要もなければ、説得する必要もないし……」
 あれはいわば、人の形をした台風のようなもの。進路が逸れ、去っていった後まであーだーこーだと思い悩むことはない。俺達はただ、自分達の安全を守れればそれでいいのだから。
「それにね、私達にはモンスターにしか見えない男にも、ああして一緒に泥を被ってくれる友達がいるんです。素敵なことじゃないですか」
「平家探偵は、何がよくてあの男の友達やってるんだろうなぁ」
「それは私達があなたと仲間をやっているのと同じ理由だと思いますよ」
「どういう意味?」
 と、煙草に火を付けた青緑が心底うんざりした顔で紫煙を吐き出す。
「なぁおい……この先次から次へと異邦人がきたらどうする? あんなのいちいち相手してらんねぇぞ、めんどくせぇ」
「たとえば、燃える高校生とか、天狗とか?」
「燃える高校生ってなんですか」
 俺達が、そんなよしなしごとを話していると。
「……あの!」
 パジャマに着替えたしのぎが、躊躇いがちに声を上げた。その目は怖じることなく、真っ直ぐに栂野を見つめている。むしろ話しかけられた栂野のほうが、面食らった顔をしていた。
「どうした?」
「わたし……あの時、あなたが痛めつけられるのは、神父様が痛めつけられるよりはましだって思ったの。だから、声を上げなかった」
「いや……当然のことだ。気にしないでくれ」
「でも! あなたは神父様を命がけで守ろうとした……そうだよね?」
「……ああ」
「だから……謝る。ごめんなさい」
 不器用に互いを気づかい合う二人の姿に、鼻の奥がつんとする。
 いつか、この兄妹の心が以前のように通じ合う日はくるだろうか――それは、今も尖塔に輝く十字架のみが知ることだ。
 泣きそうになっていることを悟られたくなくて、わざと明るい声を出す。
「しっかし、お前。よく我妻のこと許したよな。言いがかりじゃないとはいえ、ハンマーで二発もぶん殴られたんだぞ? 普段のお前なら損害賠償請求くらいするだろうに。今夜に限って物分かりよすぎやしない?」
「……どうして自分はここにいるのかと、彼は言いましたね。理由がなければ呼ばれないとも」
 神父は、複雑な色の瞳で黒髪の兄妹を見つめていた。
「あの断罪者を望んだのは、他ならぬ私であり――栂野だ」
 その考えに、俺は承服しかねた。
「お前達が望んだだって? ……危うくぶっ殺されるところだったんだぞ?」
「ええ、危うくぶっ殺されるところでしたね。彼の指摘には、かなり痛いところを突かれましたし。……しかし痛いだけではなかった。救いがたきものにとって、呵責なき鞭の痛みは時に救いでもある」
 かつて、神父の罪は栂野が嫌と言うほど責め立ててくれた。
 しかし、栂野が更正した今。神父を責め立ててくれる人間は誰もいない。しのぎは悩み、それでも許した。青緑はとうに割り切って理解を示している。そして俺に至っては――唯一、神父の被害者たり得ない異邦人。
 だからこそ二人の義堂禮には。理不尽なまでに潔癖な、話の通じぬ断罪者が必要なのだ。
「それこそ寝取られ愛好家じゃないんですから。お望み通り殴られておいて、被害者面では筋が通りませんよ。間男スレイヤーもまた私の――いえ、私達『義堂禮』の紛れもない被害者なんですから」
 人間というのはおかしなものだ。罰を恐れながら、いざ罰してもらえないと自ら懇願するようになる。
 神父が間男スレイヤーに対し一切反論しなかったのは、その呵責なき叱責を、どこかで心地よく受け止めていたからなのか――
「ドSの皮を被ったドMかな? ぎにゃー!」
「ブラザーフッド直列3気筒エンジンの中で、皮を被ってるのはあなただけです」
「最低!」
 神父は、すでに立ち直ったらしい。蹴りの威力がいつも通りだった。
「ですが、そういう自虐的な態度が返って大切な人達まで傷付けると、この一件でよーくわかりました」
「自虐癖と決別するついでに、手足出る病も治せ」
「手足口病みたいに言わないでください」
 神父は軽く俺を無視しつつ、まだどこかぼんやりした栂野の肩を叩く。
「だからね、栂野。あなたも私達の前で無闇に縮こまるのはおやめなさい。我々は狐ではなく人間なんですから。償いは相手の目を見て堂々としましょう」
 意思疎通の取れていない償いは、容易く自己満足に陥る。
 こんなに反省しているんだから、これ以上自分を責めてくれるなという卑屈な態度――それはいわば、自虐という名の先制攻撃だ。
「それにね、たとえその償いが見当違いで、けっして許される日はこないのだとしても。これ幸いと肩の荷を下ろしてしまう理由には値しない。私は今まで通り、これからも自分の信じる道を歩み続けますよ。誰が何と言おうとね」
 無意味だとしても、不毛だとしても。続けてきたこと自体にいつか意味が生まれる。
 神父の言葉を噛み締めて、栂野は静かに頷いた。
「義堂の言うとおりだな」
「……しかし新しい知見というものは、常に外からもたらされるものですねぇ」
 神父が、ちらりと俺を見る。俺は頭の後ろで指を組み、あえていつも通りに笑った。
「いいこと思いついた! お前が罰してほしいなら、毎日俺にラーメン奢る罰はどう? 喜捨」
「ぶん殴りますよ」
「ひょっとこに頭かち割られるより、俺に奢るほうが嫌なのか……」
 俺が遠い目になっていると、からりと台所の窓が開き、青緑が顔を出した。
「腹減っただろ、夜食作るぞ。何がいい?」
 「ラーメン」と、俺と栂野の声が見事にはもり、しのぎが声を立てて笑った。
 台風は無慈悲な災害だ。泣き落としは通じず、人間の都合なんて考えてくれない。
 けれどそんな台風が去った後。決まって空が洗われたようにきれいになることを、俺達は知っている。

「エミー、事務所着いたぞ。おっきしろ〜」
「……ん」
 横から揺すり起こされ、俺は暗いシートの上で目を覚ました。
 覗き込む平家の顔を認め、意識が急速に輪郭をもつ。
「――ッ」
 状況について行けず、心臓が叩かれたように痛む。
 ここは――平家の借りている駐車場だ。見れば平家はすでにリュックを肩に提げ、車のキーを携えていた。時計を見れば、車に乗り込んでからほんの数十分しか経っていない。
 ならば、あれはすべて――
「なー、サバのスパゲティと山芋のふわふわ焼き、どっちがいい?」
「……黄粱の一炊、か」
「え、なんて? 雑炊?」
 何も知らない平家が首を傾げ、色素の薄い髪がさらりと揺れた。
「……変な夢を見ていたよ」
 俺は脱力しつつシートに身を預け、寝ぼけまなこで笑う。
「あっ、こら、また寝るな!」
 平家が焦ったように声を上げた。

 俺がどこにいても、平家は必ず見つけ出してくれる。
 理解不能の異常者に、理解不能と知りながら寄り添ってくれる男のありがたさを噛み締めながら。俺は再び目を閉じた。

2019/02/22 Tumblr掲載
2020/11/16 LOG収納

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