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バレンタイン/ブラザーフッド/ほぼギャグ

「をろくー、お散歩行こ!」
「お、行くか」
 準備万端のしのぎに揺すられ、俺はソファから体を起こした。
 最近、夕食後にしのぎと夜の散歩に行くのが習慣になっている。
 受荊者狩りとは異なる平和な非日常感。ちょっとしたお菓子も買ってもらえるので、しのぎも楽しみにしているようだ。
 ダウンを着て出かける旨を伝えると、神父が言った。
「をろく、危ないからちゃんと18歳のほうになって行きなさい。あと、なるべく早く帰ってくるんですよ」
「わかってるよ」
「行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい」
 神父は意地でも俺を『ナヴィガトリア』とは呼ばない。
 俺も別に気にしていない。俺はをろくであり、ナヴィガトリアなのだ。どちらなりと好きなほうで呼べばいい。俺が未だに神父を神父と呼んでいるように。

 梅の花の香りが淡く漂う夜道を手を繋いで歩く。
 しのぎは上を向いて、すんすんと鼻を鳴らした。耳当てをしているからか、仕草がどうにも犬っぽい。
「うーん、いい匂い。春が近付いてきたって気がするねー」
「日も長くなってきたよなぁ」
「昼間もあったかくなって、猫達も嬉しそうだよ」
「猫が嬉しいと俺も嬉しい」
 ほどなく、夜道に頼もしいコンビニの灯りが見えてきた。
 しのぎがお菓子を選んでいる間に、俺はすかさずラーメンの棚をチェックする。新商品はなし、と。
「お」
 本の立ち読みでもしようかと何の気なしに見た一隅に、カラフルなチョコレートの箱が並んでいた。そういえばもう、そんな季節だったか。
「バレンタインかぁ……」
「そうそう、をろくにチョコレートあげる約束してたもんね」
 お菓子を選び終えたしのぎが、横からぴょこりと顔を出す。
「覚えてたのか」
「忘れないよぉ」
 くすくす笑うしのぎと共に会計を済ませ、店を出た。
 途端に吹き込んでくる冷たい夜風に体を縮める。うーむ、未だ春は近いようで遠い。
 同じ道を辿りながら、とりとめのない話をする。
「去年のバレンタインは、ガトーショコラを作ったの。をろくも一ヶ月早く教会に来てたら食べられたのに」
「今年も同じの作るのか?」
 わくわくしながらそう聞くと、しのぎは何かいいことを閃いたような顔つきになった。
「そうだ、せっかくだから一緒に作ってみる?」

 次の日の午後。
 俺達は食料のストックされている棚をのぞき込みながら、司祭館にない材料をスマホにメモしていった。
 ちなみにメニューはガトーショコラからブラウニーに変更された。曰く「そっちのほうが初心者にも簡単に作れるから」だそうだ。
「チョコレートと、無塩バターと、粉砂糖……あと、くるみね」
「よっしゃ、買いに行こう」
 その後スーパーに買い出しに行き、無事目的のものを仕入れて帰った。
 手を洗い、エプロンと三角巾を付けて準備は万端。しのぎが胸を張る。
「それでは、ブラウニー作りを始めます」
「お願いします、先生」
 俺は、フライパンでくるみを乾煎りする係だ。焦げないように弱火で根気よくフライパンを動かしていると、次第に香ばしい香りがしてきた。
「くるみ、全部使わないのか?」
「入れすぎても舌触りが悪くなっちゃうからね。残しておけば、青さんがくるみ和え作るときに使えるし」
「なるほど」
 その間にしのぎは粉をふるったり、バターを切り分けて常温に戻したりと、てきぱき下準備を進めていく。
「むむむ、なんかポーション作るときと似てるかも」
「そうなの?」
「材料を用意して、正確に計量して、レシピ通りに混ぜていく……だろ?」
「そう考えると、をろくはお菓子作りの才能があるかもよ」
「だといいなぁ」
 しのぎのお墨付きを得たのだ。見事おいしいブラウニーを作り上げて、神父をぎゃふんと言わせたる。
 もっともあいつの場合、煽り目的で本当に「ぎゃふん」と言って来そうだけど……いかん、お菓子を作るときは、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ……。
「生地は下からすくうように、さっくり混ぜて……」
「こう?」
「そうそう」
 しのぎ先生に教わりながら、慣れない手つきで工程をこなしていく。
 シートを敷き詰めた型に生地を流し入れ、型をテーブルに軽く叩き付けて空気を抜く。あとは予熱したオーブンで焼き上げるだけだ。
「おー……」
 しばらくするとオーブンから甘い匂いが漂ってきた。
 洗った道具を拭きながら、しのぎがくすくす笑いを漏らす。
「をろく、そんなにじっと見てなくても大丈夫だよ」
「でも見てたい」
「金魚鉢覗いてる猫みたい」
 焼き上がったブラウニーをケーキクーラーで冷ます。ちょっと味見したいけど、あら熱が取れるまでは我慢だ。
 冷めたら粉砂糖を振りかけ、切り分けてからワックスペーパーでキャンディのように包んで出来上がり。しのぎは形を整えるときに切り落とした端っこを食べさせてくれた。
「うまい!」
「うん、上出来上出来」
「ふっふっふ、これで神父の鼻を明かせるな!」
「どうかなぁ。神父様、をろくには素直じゃないから……」
「この場合俺を否定することは! すなわち、しのぎを否定することになるから大丈夫」
「それ、鼻を明かしたって言うの?」
 何はともあれ、ブラウニーは無事完成した。

「バレンタインのプレゼントですよー」
 夕食後。
 紅茶を淹れて、さっそく二人にブラウニーを振る舞った。新聞を読んでいた神父が紙面から顔を上げる。
「おや、二人で作ったんですか?」
「昼間何かやってると思ったら、これだったのか」
 青緑も寝転がっていたソファから腰を上げて食卓に着いた。
「俺が煎ったくるみが入ってるぞ、えっへん」
「他には何をしたんですか?」
「えーっと生地を混ぜて……あと仕上げに粉砂糖かけた」
「ほとんどしのぎさんが作ったんじゃないですか」
 呆れたように神父が言う。ぐうの音も出ない。
「言ってやるなよジョージ、少なくとも見た目はうまそうだぜ」
「……まぁ、しのぎさんが監督していたんですから問題はないでしょうね」
 青緑と違い、なおもかわいくないことを言う神父を睨む。
「いいか、ホワイトデーは三倍返しだぞ。スーパーのレシート見せるから正確に三倍返せよ」
「なんですか、ずうずうしい。しかたないですねぇ……特別に借金の利子を10%負けてあげます」
「借金を負けるんじゃないのかよ!」
「二人とも早く食べようよー」
「そうですね、馬鹿なことやっていないでいただきましょう」
 俺もちょっと味見しただけで、丸ごとは食べていないから楽しみだ。
 全員が皿に手を伸ばしかけた、その時。
「え?」
 ブラウニーののった皿が――忽然とかき消えた。
 急に広くなったテーブルに、紅茶の湯気だけが漂っている。
 あまりにも予想外のことが起こったとき、人は間髪入れずに喚いたり叫んだりはしない。必ず何秒間か、妙な空白の時間が訪れるものだ。
「き、消えちゃった……」
 しのぎが目を泳がせ、神父が素早く席を立つ。場の空気が困惑から緊張へと様変わりした。
「え、まさかこれ、受荊者の仕業か……!?」
「それ以外に考えられないでしょう。私は、こんないたずらしませんよ」
 肩をすくめつつ「できたとしてもね」と続けられ「できるのかよ」と思わず突っ込む。神父は意に介した様子もなく、小声で続けた。
「賊が館内に侵入しているかもしれません。互いに離れないようにしつつ貴重品を確認しましょう」
 5分後。
 俺達は困惑したまま、再び食堂に集合していた。
「他に、なくなっていたものは?」
「特にねぇな」
「わたしも」
「俺も」
「ということは盗まれたのはブラウニーと、私の『なんでも言うこと聞きます券』だけですか……もちろん再発行できますよね?」
「さらっと嘘を織り交ぜるな! ……ってことは、賊はブラウニーだけ盗っていったのか? なんのために?」
 受荊者に常識が通用しないのは、これまでの経験でわかりきっている。
 それにしたって、これは類を見ない怪事件だ。金でも貴重品でもなく、なぜブラウニーが盗まれたのか? それも俺達の目の前からぶんどるだなんて、犯行を隠す気があるとは思えない。その真意は挑発? それとも単なる考えなしか。
 しばらく黙考していた神父が、不意に顔を上げた。
「……もしかすると、ブラウニーそのものが欲しかったわけではないのかもしれませんね」
「そんなに高かったのか、あの皿」
「猫の皿じゃないんですから」
 要領を得ない物言いに首を傾げると、神父は肩をすくめて見せた。
「棘は心の傷に咲く、ですよ。殊に二月は傷を負ったり、古傷が疼く月でしょう? 賊の目的はブラウニーではなく、バレンタインのチョコレート全般なのでは?」
「な、なるほど……」
 動機としては、あり得る。いや、間違いなくそうだろう。
 要するに――この棘の根源は、疎外感に端を発した怒りだ。
「恐らく、まだこの近辺に潜んでいるんでしょう。どうやら犯行を隠すつもりもないようですから、案外すぐ見つかるかもしれませんね」
 外に出ると、行きつけのコンビニでちょっとした騒ぎが起きていた。
 愛されて二、三年。地域密着型神父がよそ行きの顔を作って話を聞いたところ「目を離した隙に商品棚からチョコレートが消えた」という。
 通常のチョコレート菓子やデザートなんかは無事だったにも関わらず、バレンタインの特設コーナーの商品だけが忽然と売り場から姿を消したらしい。
「で、どうすんだジョージ」
「もちろん捕まえます」
「今からぁ? 相手がどこにいるかもわからねぇのに? 犬釘中のコンビニだのケーキ屋だの、全部巡るつもりじゃねぇだろうな」
 青緑があからさまに乗り気じゃないのも無理はない。
 確かに窃盗は犯罪だ。けれど我欲のためなら殺しも辞さない受荊者を目の当たりにしている俺達にとって、事の緊急性はさほど高くないように思えた。
「割れ窓理論ですよ。小さな犯罪を見逃せば――」
「やがて大きな犯罪に繋がる、か。わかったよ」
 なるほど。今はそれで済んでいても、やがてチョコレートを盗むだけでは満足できなくなるかもしれない。
 凶悪化を未然に防ぐためにも、これ以上の犯行を見過ごしてはいけないのだ。
「けど神父、なんの手がかりもないチョコレート泥棒をどうやって捕まえる気だよ?」
「賊の目的は、ただのチョコレートではありません。愛を込めて人から人へと贈られるチョコレートです。居場所がわからないなら、餌を仕掛けておびき寄せるまでですよ」
 神父は言いながら、ぽんと俺の肩に手を置いてきた。
「というわけなので、がんばってくださいね。をろく」
「は?」
 なんだか、猛烈に嫌な予感がした。

 待ち合わせ場所の公園を目指して夜道を駆ける。
 急ぎすぎて中身を壊してしまわないように、そっと紙袋を胸に抱えた。
「……あ」
 街灯の下に、見慣れた長身を見つけた。
「先輩! ごめんなさい、こんな遅くに」
「別に構わないけど。どうしたんだよ、急に呼び出したりして」
 膝に手を突いて息を整え、前髪を直す。
 あんなにイメージトレーニングしたはずなのに。話を切り出すのに、しばらく時間がかかった。先輩は、ただ黙って私が話し始めるのを待っていてくれた。
 意を決し顔を上げる。不意に先輩と目が合うと、心臓が口から飛び出そうになった。
 ああ、やっぱりかっこいいなぁ……。
「先輩、もうすぐ卒業じゃないですか。……東京の大学に行くって、私、聞いて」
「ああ、そうだな。これからはお前とも……気軽には会えなくなるな」
 再び、沈黙。
「先輩とさよならする前に、どうしても伝えたくて……私!」
 園内に設置された街灯が、優しく二人を照らし出している。このまま時間が止まってしまえばいいのにと、本気で思った。
 意を決し、胸に抱えた紙袋を差し出した。
「ずっと好きでした! これ、私の気持ちです。受け取ってください……!」
 微かに息を飲むような気配と共に、先輩が躊躇いがちに近づいてくる。
 その時、まるで二人の間を引き裂くように――邪悪な気配が割り込んだ。

「そこまでです」
「うぎゃッ!?」
 差し出された紙袋がかき消える、まさにその瞬間。
 《隠れ蓑》で透明化していた神父により、小柄な人影が地面に叩き付けられた。
 受け身の心得なんてないのだろう。思い切り背中を打って海老反りになっているのが哀れだ。
「離せ! 離せよっ!」
「暴れないでください。こっちには回復担当がいるんですから、おとなしくしないなら腕の一本くらいへし折りますよ」
 神父の脅しに「ひぃっ」と息をのむ音が聞こえた。
 中学生くらいだろうか。暗がりから引きずり出されたのは、なんだか冴えない感じの少年だった。クラスに一人はいる、なかなか名前を覚えてもらえないタイプ。
「何を失礼なこと考えてるんですか。彼も、あなたみたいなニャンポンタンにだけは馬鹿にされたくないですよ」
「さりげなく人の心を読むんじゃない」
 ほぼ同時、しのぎも隠れていた遊具の中から出てきて、にこにこしながら『先輩』に近付いていく。
「青さんの高校ってブレザーだったんだね」
「まさか、この歳になって制服着るとは思わなかったぜ……おい撮るな」
「えー、かっこいいのにー」
 撮影拒否され、スマホを構えたしのぎが唇を尖らせる。
 やむを得ずとは言え、一番苦手なタイプの青春ドラマを演じさせられた青緑は、いささかげんなりした面持ちだった。
 釣り餌は功を奏し、結果的に姿なき受荊者は見事に釣られたわけだ――が。
 そこで神父が、なんとも言えない半笑いで俺を見た。
「いやぁ、いい演技でしたよ魔女っ子をろちゃん。ラジー賞待ったなしですね」
「うるせー! お前の埃被ったシナリオセンスには負けるわ!」
 魔法でJKに変身した俺は、いつもより高いトーンで吠えつつ地団駄を踏む。
 そう、芝居には相手役がいる。不本意極まりないが、消去法的にこの場で務められるのは魔女である俺しかいなかった。
「ヒロイン役ならしのぎがいるだろ! 大体、あからさまな遠距離恋愛感出してたけど、実際そんなに離れてねーからな犬釘と東京!」
「正体不明の受荊者に対する囮役として、しのぎさんを危険にさらせと言うんですか? 第一、チョコレート泥棒に対する釣り餌として『ベタな恋愛ドラマ』に勝るものがあるとでも? それと、確かにJKに変身しろとは言いましたがね……なんですか、この芋臭いの」
「それが功労者に対する言い草かー!」
 歯ぎしりしながら変身を解く。
 ただでさえ寒いのは苦手なのに、二月の夜に生足スカートは死ぬ。JKってすごいな。
 神父も顔面から笑みを消し、どうやら尋問モードに入る気のようだ。長身に威圧感を滲ませて少年に詰め寄った。
「さて、聞かせてもらいましょう。なぜ、こんなことをしたんですか?」
「うるさい……」
 俯いた少年の口元から地獄の底から響くような怨嗟の声がしたかと思うと、きっと顔を上げ、口角泡を飛ばす勢いでまくし立て始めた。
「人間は、最大多数の最大幸福を追求するべきだ!」
「は?」
「だからこそ、バレンタインは廃止しなきゃならない。なぜなら――バレンタインで幸せになる人間と不幸になる人間、後者のほうが圧倒的に多いから!」
「はぁ」
「買うのも売るのも結構、作るのも贈るのも好きにしろ。その代わり俺が片っ端からチョコを盗んで、誰一人チョコを受け取れなくしてやる! そうすれば……そうすれば……」
「そうすれば?」
「全員一律でもらえなければ、『俺が』もらえなかったことにはならない!」
 俺達は全員あっけにとられていた。
 主張自体は至極馬鹿馬鹿しいが、込められた本気は伝わるものだ。いや、まさしく虚仮の一心が岩をも通した結果なのだろう。
 木の葉を隠すなら森の中。
 チョコがもらえないのなら、誰一人チョコを受け取れなくすればいい――なんて言ったら、今は亡き桜花に「一緒にしないでくださる? 下郎」と張り倒されそうだが。
 妙に気圧されて言葉もない俺達をよそに、少年は一人、ますますヒートアップしていく。
「何も悪いことしてない人間が、どうして毎年チョコレートをネタに嘲笑されなきゃならないんだよ!? たかがチョコレート一つで人間の価値が左右されるなんて理不尽だろ!」
 確かにバレンタインとは、好意という不可視のものがチョコレートという形で可視化されてしまう残酷な日だ。  それまで黙って聞いていた青緑が鼻で笑った。
「たかがチョコレート一つに踊らされてるのは、お前も同じじゃねぇか。甘い物食わない奴からしたらあんなもん、もらっても嬉しくもなんともねぇからな? 特に、知らない奴からの手作りなんてキモいだけだぞ」
「自虐風自慢か! 俺だって得体の知れないチョコをもらって笑い話にしたい! チョコに囲まれて『甘い物苦手なんだよねー』と言ってみたい! 大量のチョコを家族に処分させたい! バレンタインが憎い! チョコが憎い! 浮き足だった空気が憎い! うがー!」
「まぁまぁ、落ち着いて……」
「落ち着けだ!? あんたら二人みたいな……見るからにバレンタインにまつわる苦い思い出のないイケメンに、俺の気持ちがわかってたまるかぁー!」
 渾身の絶叫が、凍てついた夜空に轟いて消えた。
「まぁ、それもそうですね」
「確かにそうだな、悪かった」 「うごご……」
 まったく悪気のない追い打ちに、少年は心底打ちひしがれた表情になる。なぜだろう、今猛烈にこいつの肩を持ちたい気分だ。
 ……ん? 二人?
「ちょっと待て、俺は?」
「は? だって見るからにこっち側だろ……」
「ぎにゃー!」
 これこそ、まさしくもらい事故じゃねーか。しのぎが若干笑いをこらえつつ、哀れむように背中をなでてくれた。
 収拾が付かなくなってきたタイミングで、神父が少年をベンチに座るよう促した。
 園内の自販機で温かいお茶を買い与える。一人抱えていた鬱々とした思いを吐き出したせいか、少年も少し落ち着いたようだ。
「クリスマス、バレンタイン……たかがイベントに、どうして我々は踊らされるんでしょう。誰かに笑われて惨めな思いをしないため? 滑稽ですよね。年に一度の日のために、何週間も前から憂鬱になるなんて」
「バレンタインはともかく、クリスマスにたかがはまずいだろ。腐っても司祭なのに」
「言葉の綾なんですから混ぜっ返さないでください」
 神父は少年を見つめ、打って変わって静かに問いかけた。
「バレンタインにチョコレートの一つももらえない男は、そんなに無様でみっともないですか?」
「俺じゃない! 世間がそう言って――」
「いいえ、世間は関係ありません。それは、あなた自身の決めつけ。あなた自身が『こうであらねばならぬ』と、自分にかけた呪いですよ」
 そう、そもそもチョコをもらえない人を無様だと思っていなければ、チョコをもらえない自分を無様だとは感じない。無意識に育んだ偏見は、自他を問わず牙を剥くものだから。
「自分に嘘をついてまで、他人の幸せを祝福しろとは言いません。ですがチョコレートが消えたところで、別の何かが代わりに贈られるだけですよ。その間あなたは他人から笑われないために、空しいいたちごっこに一生を費やすと? それがあなたの本心からの望みですか?」
 真正面から諭された少年は、唇を噛み締めて俯いた。
 雨風を凌げる家があり、健康で、食べるものに困っていなくとも。他人と比較することで、俺達はいとも簡単に生き地獄を味わうことができる。
 あいつは、あれができるのに。
 あいつは、あれを持っているのに。
 あいつは、あれをしてもらえるのに。
 どうして自分は、それらを与ることが出来なかったのか?
「ブラウニーはあげるよ。だから他のチョコレートは元の持ち主に返してあげて」
 不意に、しのぎが静かな声で言った。
「え……」
「お願い」
 予想もしていなかったのだろう。少年は、あっけにとられている。
「おいおい、いいのかよ、しのぎ」
「いいよ、また作ればいいんだから。その時はお手伝いしてくれる? をろく」
「お、おお。まかせとけ」
 別に俺は大したことしていないし、しのぎがいいなら別段文句はない。
 しのぎはチョコレート泥棒に対し、なおも優しく続けた。
「外国ではバレンタインに、大切な人にカードやお花を贈るんだって。バレンタインは告白をする日でも、ましてやチョコレートの数に一喜一憂する日でもなくて、本当は身近にいる大切な人に感謝する日なの。むしろイベントなんて関係なく、自分から何かしてあげたいと思える人が見つかったら――それってすごく素敵だよね」
 しのぎはチョコレート泥棒に、にこっと笑いかけた。
 相手は、その笑顔ですっかり毒気を抜かれてしまったらしい。年下の女の子に優しく諭されたことで、恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
 しのぎにはそんなつもりはまったくなかったんだろうけど、意図せず脅し役となだめ役の刑事の如きコンビネーションを発揮したようだ。
「どうも、すみませんでした……盗ったチョコはちゃんと返します」
 中学生は謝罪して棘を明け渡し、しょんぼりと帰っていった。
 成り行きとはいえ、しのぎの作ったブラウニーは唯一あいつ自身に贈られたプレゼントなのだから、ぜひとも味わって食べてもらいたい。
 少年の姿が見えなくなると同時に、神父がため息をついた。
「思うに、彼は根っからの悪人ではないんでしょう。ちっぽけなプライドを守るために過ちを犯したとは言え、他者を害する方向には向かわなかったんですから」
「そっか。バレンタインという概念そのものをなくすとか、お菓子メーカーを倒産させるとか、強制的に女の子を自分に惚れさせるとか、もっと悪質な棘だって芽吹いた可能性はあったもんな……」
「あと単純に『いつかは自分も真心のこもったチョコレートをもらえるかもしれない』という可能性を諦めたくなかった、というのはあるでしょうね」
「だよね」
 とにかく、あの少年にとってもまだ取り返しのつく悪事だったことは幸いだ。

 帰り道。
 コンビニには元通りにチョコレートが並んでいて、店員が胸を撫で下ろしているのが見えた。
 正当な持ち主のところに戻ったチョコレート達。今夜はある人にとっては甘く、またある人にとっては苦いバレンタインになるのだろう。
 と、神父がしきりに首をひねりながら言った。
「《チョコレートボックス》――ありとあらゆる障害を無視してチョコレートを盗む棘。一体どんな局面で使えばいいんですか、これ」
「チョコが食べたいときでいいんじゃないの」
「盗んでまでチョコレート食べようとは思いませんよ、あなたじゃないんですから」
「俺だってそんなことせんわ! ラーメンならともかく……」
「ラーメンも盗んじゃ駄目でしょ!」
「しかしジョージ、お前の書いたシナリオはなんだよ。公園に呼び出して告白? 今時のガキはWINEでお手軽に告るだろ」
「責めてやるなよ、青緑。何しろ神父は家庭科が女子にしかなかった時代の残党なんだから……ぎにゃー!」
「そこまでおっさんじゃありません。すみませんね、メンバー唯一の昭和生まれで!」
「もー、神父様。すねちゃだめだよ」
 生憎、今夜の俺達に甘いご褒美はないけれども、何もチョコレートだけが愛情の代名詞というわけじゃなし。
 二月十四日の奇妙なチョコレート盗難事件は、こうして幕を閉じた。

「というわけで、改めてブラウニーを作ったよ」
「心して食え、特にそこの七三」
 翌日の夕食後。
 昼のうちに作っておいたブラウニーが、満を持して食卓に運ばれた。さすがに二回目だけあって、昨日のより出来映えはいい。
「いただきます」
 頬張ると、歯切れのいい生地が控えめな甘さと相まって実にうまい。
 ときどき歯に当たるくるみが絶妙なアクセントになっていた。
「うまい! くるみの煎り加減が絶妙だ! あと粉砂糖のかかりかたが、なんかこう……枯山水的な趣きが……」
 俺が自画自賛していると、神父が鼻で笑った。
「八割方しのぎさんの手腕ですよね」
「素直においしいと言え!」
「別にまずいなんて言ってないじゃないですか。ええ、おいしいですよ? あなたの貢献部分に疑問があるだけで」
「ぎにゃー!」
「もー、素直じゃないんだから」
「いや、でも悪くない味だぜ」
「ほらー! 青緑のこの態度を見習え!」
「聞こえません」
 普段は甘い物をほとんど食べない青緑も、今夜は一切れ全部食べきってくれた。「知らない人間の手作りはノーサンキュー」と言い切っていた男の、無言の信頼を感じて嬉しくなる。
「あーうまかった! さて……」
 もう一個、と手を伸ばそうとしたとき。
 俺の見ている前で、昨日と同じようにブラウニーが消失した。違うのは、棘を振るっている相手だけだ。
「というわけで、残りは私がいただきます。しのぎさん、ごちそうさまでした」
「何がというわけでだ! さっそく《チョコレートボックス》の有効活用してんじゃねー!」
「別にいいですよね、青緑?」
「俺は構わねぇが、をろくはいいのか」
「何一つよくない! せ、せめてもう一個……」
「一個500円です」
「ぎにゃー!」
「あははははは……」
 一日遅れのバレンタインは、こうして過ぎていった。

 私は足を止め、目的地である、なんの変哲もないアパートを見上げた。
 病死三件、自殺二件、殺人一件――バリバリの曰く付き物件である。栂野ゐちがただ一点、破格の家賃だけで選んだ住居だ。
 保証人を頼まれたとき「ここはやめておきなさい」と忠告したのだが「俺以上に不吉なものが、この世界に存在すると思うか?」という至極もっともな指摘を受け、返す言葉を探しているうちに彼はさっさと契約を結んでしまった。
 事実、栂野の出現によって、アパートに巣くっていた幽霊は蜘蛛の子を散らすように逃げ出したらしい。
 外壁を塗り替えたわけでもないのに、入居前とは見違えるほど外観が明るくなっていて笑いそうになる。不動産屋もさぞかし喜んでいることだろう。
「はい」
 チャイムを押すと、ラフな格好をした栂野が顔を出した。
 事前に訪問する旨の連絡は入れてあるため、面食らった様子はない。軽く挨拶をしたものの部屋には上がらず、玄関先で紙袋を差し出した。
「バレンタインのプレゼントです。ああ、私からじゃないですよ? しのぎさんと、あとニャンポンタンのお手製です」
「……ありがとう」
「もっともあなたのことですから、アルバイト先や大学でたくさんチョコレートをもらっているでしょうけれど」
「そういうものとは、重みが違うだろ」
「ならよかったです。こちらとしても、棘の有効な使い道があって何よりですよ」
「?」
 不思議そうな顔をしている栂野に、答え代わりの苦笑を返す。
「しのぎさんは、ゆるキャラのしんじょう君にはまっているのでホワイトデーの参考にしてください。ラーメンを被ってるところに惹かれるんですかね……? ちなみに、をろくへのお返しはお気づかいなく。水道水でも飲んでりゃいいんです」
「……ああ、わかった。わざわざ届けてくれてありがとう、義堂。ブラザーフッドにもよろしくな」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 栂野は目を細め、宝物のように紙袋を抱きしめた。

 アパートから出ると、魔女が箒に横座りして、ふて腐れたように腕を組んでいた。
 脚をぶらぶらさせながら、お裾分けに来た私をねめつける。
「なんだよ、栂野にやるつもりだったなら俺だって別に……」
「いくら私でも、しのぎさんの前で『栂野にあげたい』とは臆面もなく言えませんよ」
「そりゃそうだけど」
 まだ何かブツブツ言っているをろくを無視して箒に跨がる。
「さぁ、気持ちを引き締めて受荊者狩りに行きますよ。さっさと車出してください、運ちゃん」
「誰が運ちゃんだ!」

 バレンタインは終わり。
 何しろこの街には、チョコレートの甘さ程度では癒やされない怪物が跋扈しているのだ。
 悲しみを生む種を根絶やしにするまで、ブラザーフッドに休みはない。

2017/02/14 Tumblr掲載
2020/11/16 LOG収納

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