and they lived happily ever after.
滴草兄弟/ほんのり腐向け

 広遠な空間に、ぽつんと黒い棺が横たえられている。
 無言で蓋に手を掛け蝶番を開くと、途端に薔薇の香りが鼻を突いた。
 指を組み、白い薔薇に埋もれて寝そべるのは、自分と同じ顔。違うのは血の気がないことだけだ。
「……おいおい兄貴。あんた、白雪姫だったのか?」
 自分で言って失笑する。こんなでかい図体をしたお姫様がいてたまるか。
 しかもニヤニヤ笑いで、返り討ちにした猟師の生首をぶら下げて城に凱旋するようなやつだ。いいや、むしろ追い出される前に先手を打って、継母に焼けた靴を履かせるか?
 少なくとも絶対に、知らない婆さんに差し出されたりんごを無警戒に口にするような間抜けじゃない。
 栂野が改心を果たし、をろくと再会することができた今でも変わらずに。《プレッパー》のただ中で、永遠に清らかに死んだままの兄貴。
 うじゃじゃけた首筋の傷痕は跡形もなく修復され、返り血のこびりついた肌や髪もきれいにぬぐわれ。静止した空間の中、朽ちるどころか腐ることすら許されず。死臭すら漂わせないそれは、精巧な作り物のようだ。
 「死んでいる」と言うよりは「生きていないだけ」と言ったほうが正確な兄の頬に、指の背で触れる。――冷たい、だが無機物とは明らかに違う。かつて、温もりを持っていたもの。
「……」
 いつかの名残を探し出すように、輪郭をなぞる。遺跡調査と同じだ。終わったものを掘り返して感慨に浸るだけ。過去は、けっして変えられない。
「知ってるか、兄貴。白雪姫の継母は、原典では実の母親だったらしいぜ。教育的配慮ってやつだよ。よい子のみんなに読ませるお話に、実母による子殺しなんてショッキングなエピソード、載せるわけにゃいかねぇだろ。しかも動機が若い女に対する嫉妬だぜ」
 救えねぇ、と呟きながら髪を一房すくい取ると、さらりと指の間から逃げていった。
「おまけにお妃は、猟師が証拠に持ち帰ったイノシシの肝臓を塩ゆでにして、ぺろりと食べてしまいました、だとさ。殺してやりたいほど憎い娘の血肉なんて、どうして口にできるんだ? 俺なら無理だ、生理的に耐えられない」
 言いながら棺の上に覆い被さると、ぎぃ、と蝶番が不吉に鳴いた。
 冷たい唇に唇を重ね、淡く食む。
 兄貴が死んだのは、毒りんごを食ったからじゃない。自分で自分を殺したからだ。
 だというのに俺は、この世界一不毛な儀式を繰り返す。素敵な奇跡を期待して、ではない。非情な現実を噛み締めることで現実に立ち返るための、滑稽な自傷行為だ。
 そうでもしなければ永遠に、この場所から立ち去れなくなってしまうから――
「ふあー」
 不意に漏れ出たあくびが、俺の唇と肝を凍らせた。
 死体が鳴くなんて珍しいことじゃない。体内に残留していた空気が何かの拍子で声帯を震わせる、ありきたりな現象だ。……いや、でも。死体は固まったままの俺を軽く手で押し退けて、眠そうに目をこすったりするだろうか。
 今にも寝ぼけた声で「せーろっくん、朝ご飯なぁに? コーヒー淹れてよ、とびきり甘いやつ」と言い出しそうな兄貴を前にして。湧き上がったのは歓喜ではなく――恐怖。
「あ……、あ」
 まるで一世一代の求婚の場面で、しくじった男のように。
 片膝を突いた姿勢で動けない俺を尻目に、兄貴は髪についた花びらを振り落としながら棺を跨いだ。そして俺の腕を引き、強引に立ち上がらせる。密着したことで改めて理解させられる、あり得ない異常な冷たさ。
 兄貴は俺の肩口に顔を埋め、長いため息をついた。ライブ終わりのため息とは比べるべくもない、空虚なそれ。
「……寒いなぁ。『痛い』とか『苦しい』は覚悟してたけど、『寒い』は予想外。でもせーろっくんは、あったかいね。生きてるんだから当たり前か、ハハッ」
 兄貴の吐く息が冷たい。グロ画像よりもなお効果的に、死という概念を叩き付ける暴力的な冷たさ。
 王子が見初めたのは、白雪姫。いいや――正確には死んでいる白雪姫だ。
 だったら王子様のご所望は、初めから死体だったんじゃないのかと。そう思ってしまうのは下衆の勘ぐりなのか――?
 うまい話には裏しかない。寝て待っていれば王子様が来てくれるって? 死んだ女に平然とキスする野郎なんて、まともなわけがねぇ。死に損ないの姫君を娶らせた動機が、愛ではなく隠蔽工作だとしたら。お妃が生きたまま初夜を迎えられる可能性なんて、どれくらいある?
 生きているものは、常に期待を裏切る。信頼に値するのは死体だけだ。
 兄貴は意志をなくしたことで、ようやく俺だけの兄貴に戻った。二度と俺を受け入れることはない、しかしだからこそ、拒絶することもない兄貴になってくれた。
 それが今、俺の目の前で口を利き、動いている。
 双子ではなかった俺達二人の棘の根源は、皮肉にもまったく同じ――『予測不能に対する恐怖』。
 赤橙は凍り付いたままの俺を詰るでも責めるでもなく、子どもにするように親指で頬を撫でながら、肩をすくめて見せた。
「狂った振りなんかしてもだめだよ。せーろっくんは、ネクロフィリアの変態野郎にはなれない。だってお前、正気捨てられねぇだろ? 欲しいものの前で、足踏みしてるうちは駄目なんだよ、青緑」
 せせら笑いに含まれた不穏な気配。あっと思う間もなく足払いを掛けられて、抱きかかえられる。
 何を、と言う暇も与えられず。兄貴は俺を自分の納まっていた棺へと横たえた。
「あ、に――」
 死者に生者が弔われるなど、何の冗談だ。
 しかし兄貴は、誕生日プレゼントの箱の中に、お目当ての物を見つけた子どもの笑顔で棺を覗き込んでくる。
『プレゼントってのは自分があげたいものを贈るんじゃなく、相手の望むものをあげるべきじゃない?』
 最低のタイミングで、廃墟で言われた言葉が甦った。
「死にたかったんでしょ? わかるよ、俺が取り残されたとしても、きっとそう思っただろうし。だから今度は俺が看取ってあげる」
「……」
「にしても、せーろっくんらしいねぇ、自ら《プレッパー》に取り込まれて消滅とか。最後まで誰にも迷惑掛けない、完璧な自殺だ。ただの行方不明なら、仲間の悲しみも多少は軽くなる。アフターケアも万全ってか、ハハハッ」
「――ッ」
「ばいばい、王子様」
 信じられないほど優しい声音とは裏腹に、棺の蓋が素っ気なく閉じられた。

 そうして一点の光もない闇に取り残される。薔薇の香りだけが窒息しそうなほどに濃く漂う、早すぎた埋葬――いいや、遅すぎた埋葬だ。
 だって本当は、あの夜に二人で死んでおくべきだったんだろう?
「……は」
 この世で結ばれないのならば、あの世で一緒になりましょう。
 同じ胎から生まれられなかった俺達兄弟も、還るところは同じというわけだ。ありがたいことに。
 死というピリオドによってのみもたらされる、完璧なハッピーエンド。証明できない疑いは、疑いの域を出ることはない。だから、これでいいはずなのに。
 思わず舌打ちする。
 一体何を迷っていやがる? 俺の世界は兄貴だけだ。神様と呼べるものも。ずっとそうだった。心残りなんて、あるはずが――
「まぁ、なんつーか」
 《プレッパー》によって分解されかかった俺の意識を留めたのは、途方に暮れたような誰かの声だった。
 接着剤でも付けられてるのかと思うほど重い目蓋を開くと。金色に光る二つの目が、棺の暗闇にうずくまっていた。
 震える手を無意識に伸ばす。その、妙にふわふわとした毛並みには覚えがあった。ゴロゴロと鳴る喉の合間に、猫が語る。
「お前がずっと苦しんでるのは知ってるから、これが納得ずくの選択なら、誰にも止める筋合いなんてありゃしない。過去と決別して生きろなんて、知ったような口を叩くつもりもないけど」
 特にお前ら兄弟の絆は、ばらりずんと切り離せるようなものじゃないだろうし、と猫が目を細めて笑う。
「でもさ、別に今すぐじゃなくてもいいんじゃない? ……お前の作るラーメン好きだし、バイクもまた乗せてほしいし。料理だって、もうちっと上達しないと神父の鼻を明かせないだろうし」
「……」
「俺だけじゃない、みんなそうなんだよ。たとえ、お前の一番が永遠に不変だとしても。一番のために二番や三番を切り捨てるのは、少なくとも俺の知ってる滴草青緑のやり方じゃない」
「……」
「取捨選択もトレードオフも糞食らえだろ? 何しろお前は――《プレッパー》(背負う男)なんだから」
「ああ、そうだな」
 自らの滑稽さに笑いを誘われつつ、勢いよく棺の蓋を蹴り上げる。
 吹っ飛んだ蓋が地面があるらしきところに激突し、兄貴が目を瞬いた。棺の中に潜んでいた黒猫が俺の肩に乗り、尻尾を膨らませて兄貴を威嚇する。
 おねむの時間には、まだ早すぎる。俺は薔薇をまき散らしながら、棺から這い出した。
「あーらら、黒猫にまたがられて立っちゃうなんて――せーろっくんのエッチ」
「人聞きの悪りぃことを言うな。俺はブラコンだが、ケモナーじゃねぇ」
「自分で言うそれぇ!? まったく無駄な抵抗してからに! 『あの時、オニーチャンの言うことを聞いておとなしく消えておけばよかった』って、この先後悔するかもよー?」
「するに決まってんだろうが、馬鹿兄貴。この先何を選ぼうと、あんたが死んだその時から俺が後悔することだけは違いねぇ。だがな」
 兄貴に向かい、ゆっくりと指を突きつける。
「知ってるか? 人間死んだら終わりだが、死んだ後に終わりはねぇんだよ。あの世に死んで逃げ切りは通用しねぇぞ、赤橙。焦らなくても、いずれ合法的にそっちに行ってやるよ。あの救いようのねぇ栂野でさえ、46億年という時間に負けた。こらえ性のないあんたが何年で白旗あげるか、今から楽しみだぜ」
「……」
 ピリオドの先にピリオドがないのならば。焦って今すぐ毒りんごなんか食う必要がどこにある?
 兄貴はしばらく真顔で黙っていたが、やがてけたけたと笑い出した。
「どっかの誰かさんじゃあるまいし。俺の双子の弟(せーろっくん)に対する愛は、根負けでギブアップするほどやわじゃないよん」
「上等だ、首洗って持ってろ」
「どっちの首? 上? それとも下?」
 下ネタが苦手な猫が毛を逆立てて「ぎにゃー!」と鳴く。
 兄貴は頭の後ろで腕を組み、子どもっぽく唇を尖らせた。
「ちぇー、今回は俺の負けかぁ。でも半分はポカンくんの力だから、実質引き分けだかんね! これで勝ったと思うなよー!」
 大して悔しそうでもなさそうにぼやきながら。兄貴は物言わぬ死体に還るため再び棺に寝そべる。
 シャツに包まれた腕だけを伸ばして、ひらひらと緩慢に振った。
「またね、せーろっくん」
 ばたん、と蓋が閉まり。あたりには沈黙と俺と猫だけが取り残される。
 俺は棺を見つめたまま、目覚めを促すように鳴く猫を撫でた。
「ああ、わかってるよ。とっとと戻るか――我が愛しのくそったれな現実へ」
 カーテンの隙間から差す朝日に目をすがめ、ベッドの上で身を起こしながら頭を振る。
 どうやら、俺は無事死に損なったようだ。めでたいことに。
「……ハッ、死人に鞭打つことはできないってな。生きてた頃より厄介さ増してるじゃねぇか、馬鹿赤橙」
 そう、死こそが究極の《アウトロー》。何物にも脅かされない絶対の安全地帯。
 何しろ生きていなければ、死ぬことはない。そして古来より、亡者は生者を取り殺すと相場が決まっている。実に兄貴らしいやり方じゃないか。
 笑いながらため息をつき、汗で張り付いた前髪をかき上げる。
 この世で『決意』ほど意味のないものはない。
 喉元過ぎれば何とやら。今回はギリギリで命拾いしたが、いずれ俺はまた迷い、あの棺の蓋に手を掛けるはめになるのだろう。死という甘美な誘惑に屈し、差し出された毒りんごを囓るなんてこともあるのかもしれない。
 それでも俺は、どうしても――あれを手放す気にはなれないのだ。たとえ命取りになったとしても。
 腹に死体を飲み込んだまま綺麗な思い出だけを愛でようだなんて、虫のいいことは考えちゃいない。毒を食らわば皿まで。それが兄貴によってもたらされるものならば、呪いすらも引き受けよう。
 ぐっ、と手を握り、開く。
 必要とされているのはより強い決意の重ねがけなどではなく、決意を裏打ちする積み重ね。
 なるほど、今の俺では兄貴には勝てない。
 だからこそ兄貴は今すぐ――俺の息の根を止めたいのだ。まるでワインのように。経年という化学変化を起こした俺によって自分の信念が砕かれる可能性。それを恐れている。
 ならば半世紀の執行猶予すべてを費やして。俺はせいぜい、あの一筋縄じゃいかない兄貴を追い詰められるだけの悪知恵を身につけるとしよう。
 自らに気合いを入れるため、宙に向けて鋭く拳を突き出す。
「……待ってろよ兄貴。ジョージが敬虔でぶん殴るなら、俺は経験でぶん殴ってやる」

 身支度を調えて台所に向かい、朝飯の仕度を始める。
 料理はいい。明確に始まりがあって、明確に終わりがある。地に足の付いた日々の行いは、現実との結びつきを強めてくれるから好きだ。
「ああ、みそ汁……日本の心……空きっ腹にダイレクトアタック……」
 間の抜けた物言いに振り向くと、朝っぱらからジョージにこき使われていたらしいをろくが、ふらふらと入ってきた。
 もはや子どもとは言えない上背と以前より低くなった声に反し、をろくの中身は驚くほど変わらない。それに比例するように、ブラザーフッド内でのこいつの扱いも基本的に以前のままだ。(俺はジョージなりの照れ隠しだと見ているが)
「おはよう」
「おはよー、今朝のみそ汁何?」
「しじみ。お前の好きな黄身の醤油漬けもあるぞ」
「わーい」
 小鍋の蓋を開けてほくほくしているをろくの後頭部にぽん、と手を置く。
 以前ほどではないものの、やはり丸っこい目が不思議そうに俺を見た。
 俺は一生、をろくを兄と呼ぶことはないだろう。だが兄貴以外に――大切なものがあったって構わない。
「……ありがとよ」
「んん?」
 投げかけられるだろう当然の疑問を封殺するために。とりあえず今は、思うさま頭を撫でておいた。

2016/06/14 Tumblr掲載
2020/11/16 LOG収納

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