メリーゴーランドから降りられなくなった男の子の話

「失敗したかもしれませんねー」
 地方都市のマイナーな遊園地。しかも平日の昼過ぎとあってはその閑散っぷりたるや推して知るべしだ。
 それでも餞別代りにもらったチケットを無駄にするのも躊躇われたため、この土地を離れる前に足を運んでみた次第である。そしてわかりきっていたことだが、一人で来るとこれほどつまらない場所もない。正門をくぐった瞬間から、私はいささか後悔しはじめていた。
 大の男が一人でジェットコースターやらスカイサイクリングやらティーカップに乗るわけにもいかず、観覧車に乗った後はたまたまやっていたヒーローショーを冷やかして、後はひたすらぶらぶらする。二人連れには物足りない敷地面積も、お一人様には広すぎだ。
 不意に喉の渇きを覚えて周りを見渡すと、ちょうどいい具合に売店を見つけた。こういうところで食べるのは、もちろん一つである。
「ソフトクリームください」
 寂れたレジャー施設で食べるソフトクリームは妙においしい。さて、どこか座れるところはと視線をさまよわせていた時だった。
「わっ」
「!?」
 腰の辺りに衝撃が走る。同時に三分の一ほどしか食べていなかったソフトクリームが吹っ飛び、見事にひっくり返るのが見えた。
 この悲劇の原因を確かめるために振り返ると、一人の少年が悲壮な顔をこちらに向けていた。目が合うなり、体が折れ曲がりそうな勢いで頭を下げてくる。
「ごめんなさい!」
「にゅふふー、いいんですよ。お怪我はありませんか?」
「うん、大丈夫。でも、ソフトクリーム……」
 恐らく、まだ小学校に入り立てくらいであろう男の子は、きっと顔を上げた。その曇りのない瞳にいささか気圧される形になる。
「僕、べんしょうします」
「僕みたいな小さい子に弁償なんてさせたら、親御さんに叱られちゃいますよー」
「おこづかいもらったから大丈夫だよ。えへへ、僕、今日お金持ち」
 と言って戦隊ヒーローのイラストがついた小銭入れを見せてくる。どうやらこの子は先ほどのヒーローショーを見に来たらしい。
 そこに答えが書かれているわけもないのだが、思わず天を仰いでしまう。この真摯な眼差しから見て、彼はかなり律儀な性質だ。申し出を断るのは骨が折れそうなので、とっさに話を逸らすことにした。
「えーと、それより僕、急いでいたんじゃないですか?」
「あ、そうだ! お母さん探さないと……」
「もしかして迷子ですか?」
「違うー、お母さんの方がどっか行っちゃったの! もう、しょうがないんだから」
「あらら」
 委細承知した、とばかりにぽん、と手を叩いてみせる。
「とりあえず、先に案内センターに行きましょう。お母さんが心配してるといけません。話はそれからということで、にゅふふ」
「うん」
 私はそう言い、彼の小さな手を取って歩き出した。

 係員に迷子のアナウンスを頼み、さてそろそろ退散しようかと思った時、低い位置から服の裾を掴まれた。視線を落とすと、にこにこと笑う男の子と目が合った。合ってしまった。
「そこのお店でソフトクリーム買ってくるから待っててね」
「あー……わかりました。私も一緒に行きます」
 腹をくくり、ここは彼の言い分におとなしく従うことにする。この子の瞳に見つめられると、何故だか逆らえる気がしない。生来押しが強いと言われることが多い私にしては、非常に珍しいことだ。
「ソフトクリーム一つください!」
 紅白のだんだらじまの庇がついた売店の前、店員に元気よく注文して小銭を置く。
「はい、お兄さん」
 程なく新しいソフトクリームが差し出される。彼があまりにも意気揚々としているので、まるで聖火ランナーのようだな、などと変なことを考えてしまった。
「ありがとうございますー。あ、すみません、ソフトクリームもう一つくださいな」
 店員に追加オーダーを出しつつ、きょとんとした彼に受け取ったばかりのソフトクリームを差し出した。
「はい、どうぞ」
「それお兄さんのだよ。それに知らない人に物もらっちゃ駄目だって、お母さんが」
「お互いにご馳走しあうだけですからなーんにも問題ありません。それに自己紹介をすれば、知らない人じゃないのですー。にゅふふ、お母さんには内緒ですよ?」
 しばらく言いつけと欲望の狭間で葛藤していたらしいが、とうとう白くそびえるクリームの誘惑に負けたらしい。こくんと頷いてソフトクリームを受け取った。賢いのは素晴らしいけれど、子どもはこれくらい融通が利かなくてはかわいくない。
「僕、大江蘇芳です」
「蘇芳くんですか。お兄さんは奥水――」
 ヤシロ、と言いかけた唇が強張る。首を傾げた蘇芳くんに、私は。
「奥水……麗一(れいいち)と言います」
 気づいた時にはそう、当に捨てた名を口にしていた。
 家を出たあの日、私は親に与えられた名を捨て、その空白に弔いの社(やしろ)を建てた。それなのに何故今更昔の名前を――
「れーいちお兄さん?」
「はい、よろしくお願いしますー」
 私達はその場で小さな握手を交わした。

 ベンチでソフトクリームを食べながら、蘇芳くんの母親を待つ。目の前では塗装の剥げかかったメリーゴーランドがのんきなメロディを流しつつ、やる気なさそうに回っていた。
「蘇芳くんは、お母さんと遊びに来たんですね」
「うん」
「お父さんはお仕事でこられなかったんですか?」
「ううん、違うよ。お父さん、僕のこと嫌いなんだ」
「え?」
 突然告げられたディープな話題に、どう反応していいのかわからない。対する蘇芳くんは特に気にした風もなく、ソフトクリームを舐め取りながら続けた。
「遊びに連れて行ってもらったことなんて一度もないよ。お父さん、僕が近付いたり触ろうとすると嫌がるんだ。子どもの手は汚いんだって。だから抱っこしてもらったこともおんぶしてもらったこともない」
「その……お母さんは、なんて言ってるんです?」
「お父さんはお母さんや僕だけじゃなくて、この世の人間全てが嫌いだから、まぁ諦めろだって」
 身も蓋もない言い分に呆れ、無意識に眉が寄った。そこは嘘でも「お父さんはあなたのことを思ってる」ぐらい言ってやるべきだろうに。この子の母親は何を考えているんだろう。
 言葉を失くした私に何を思ったのか、蘇芳くんは口の端にクリームをつけたまま続ける。その、澄んだ瞳。
「えーっとね、井戸なんだって」
「はい?」
 子ども特有の脈絡のない会話についていくのは骨が折れる。首を傾げる私に蘇芳くんは淡々と続けた。
「お父さんは、水が枯れきった井戸。お母さんや僕がどんなに頑張って掘っても、絶対に水が出てこないのがわかりきってる、そんな井戸なんだって。だからいつまでも出てこない水にこだわり続けるのはやめなさいって言われた。よくわかんないけど、お母さんが言ってるから本当のことだと思う」
「……蘇芳くんは、それで平気なんですか?」
「平気だよ、だってお母さんと一緒だもん」
 蘇芳くんは大きく頷き、無邪気に笑った。
 片親に疎まれながら、彼はどうしてこんな顔ができるのだろう。蘇芳くんの精神が不思議と安定しているのはきっと、母親のおかげに違いない。ともすればその、一見大雑把に見える教育法も彼に限って言えば正解なのだろう。
「そうですか、蘇芳くんはお母さんが大好きなんですね」
「うん! お兄さんのお母さんは?」
「お兄さんのお母さんはもういないんです。ずっと昔に亡くなってしまいました」
「お父さんは?」
「お父さんは私が物心つく前に亡くなったそうです。写真でしか見たことはありません」
 そう答えると蘇芳くんはしばらく口をつぐみ、じっと見つめてきた。
「お兄さん、寂しくない? 一人で平気?」
「え?」
 寂しい? 寂しいとは何だ? 長らく縁のなかったその言葉を、私は一瞬判じ損ねた。
 元より人並みの道を歩いてきたつもりはない。若い頃は我が身に降りかかった理不尽を嘆いた。自棄になり、酒に走り、何度も命を絶ち、そしてしくじり続けた。
 あれはいつだったか、星のきれいな夜だった。自殺の名所と名高い断崖絶壁。投身で死にきれなくても、冬の海が確実に命を奪ってくれるベストスポットから、私は身を躍らせた。
 海から吐き出されるように打ち上げられた時、岩場に叩きつけられて割れたはずの頭は、すっかり元に戻っていた。
 苦痛にのた打ち回り、がたがた震えながらも不思議と笑えた。何十回目かの自殺を試み失敗したその夜、私は前向きに諦めたのだ。生きることも死ぬことも。穢れた体は人間のみならず、自然にさえ受け入れてはもらえなかった。自分は永遠に一人なのだと――その夜、私は悲しいほどに思い知った。
 今更のように思う。それはもしかしたら、彼の言うように寂しいことだったのではないか。いつの間にか寂しさの意味もわからなくなっていた自分に、私はいささか途方にくれた。
 同時に忘れかけていた感情を呼び覚ましてくれたこの少年に、私は柄にもなく自身の身の上話をしてみたくなった。慰めを求めていたわけではない。ただ、彼がどう反応するかに興味があった。
「……蘇芳くん、一つお話をしましょうか」
「何のお話?」
「メリーゴーランドから降りられなくなった男の子のお話です」

 子ども達の嬌声も遠い午後。私と彼は並んでベンチに腰掛け、話を続けていた。
「昔々、あるところに男の子が暮らしていました。ある日、家にやって来たお役人によって、男の子は逮捕されました。それはパンを盗んだという罪でした」
「本当に盗んだの?」
「いいえ、盗んだのは男の子の母親である魔女です。魔女は自分ではパンを作れないから、よそのお宅からパンを盗んでいたんです。でも魔女は既に死んでいたので、代わりに男の子が罪を償うことになったんですよ。まぁ実際、盗んだものとは知らないまでも、男の子も同じパンを食べていたわけですからね。同罪といえば同罪です」
「そんな、ひどいよ。悪いことしたのは魔女なのに、なんで男の子が償うの?」
「世界は不条理なのですよー。蘇芳くんも大人になればわかります、にゅふふ」
 どことなく納得がいかない様子で頬を膨らませた蘇芳くんの頭を撫でながら、先を続ける。
「その国ではパンを盗むことは重罪でした。男の子も自分の体が盗んだパンでできていることを知って深く傷つきました。ですが意外なことに、男の子は死罪を免れました。てっきり首をはねられると思っていた男の子はほっと胸をなで下ろしましたが、事はそう簡単ではありませんでした。……パンを盗むことは、どんな理由があろうとも絶対に許されるようなことではなかったからです」
「どうなったの?」
「お役人はこう言いました。『お前の母親がパンを盗んだせいで、飢えて死んだ人達が大勢いる。穢れたパンを食べて育ったお前には死罪さえ生ぬるい。一生死ぬことも許されず、ここで回り続けるがいい』そう言って、男の子を無理矢理メリーゴーランドに乗せました」
「ええー?」
 重罰とメリーゴーランドのイメージが全く繋がらなかったためだろう。蘇芳くんは目の前で回る遊具と私を交互に見て、すっとんきょうな声を出す。その反応も無理はない。
「にゅふふ、蘇芳くんはメリーゴーランドが好きですか?」
「好きー、今日も二回乗ったもん!」
「そうですね、遊ぶだけならとても楽しいものだと私も思いますよ。でも、自分の意思で降りられなくなったらどうでしょう」
「え?」
「朝も昼も夜も、お客さんが帰った後も、灯りが落ちて園内に誰一人いなくなって、蘇芳くん一人が取り残されて、それでも止まらなかったら。それが一週間、一ヶ月、一年、十年、……その先も永遠に続くとしたら?」
 声のトーンを落として言うと、蘇芳くんはいささか青ざめた顔で、ぷるぷると首をふった。
「男の子は今もくるくると回り続けています。お友達全てが大人になっても、お友達全てが年をとって死んでも、彼だけは子どものまま。どこにも行けずに……世界のどこかで回り続けているんですよ。それはとても怖ろしいことじゃありませんか?」
 古いメリーゴーランドは、まばらに客を乗せて回り続けている。
 怖がらせすぎてしまっただろうか。蘇芳くんがすがるように私の服を掴んできたので、安心させるために頭を撫でる。彼の髪からは、子ども特有の懐かしい匂いがした。
「どこにも行けないメリーゴーランド。そんなものに乗せられてしまった男の子は一体、どうしたらいいんでしょうか」
「絶対に降りられないの? 謝っても駄目なの?」
「はい、普通の方法では到底不可能なことです。……男の子がどうすれば助かるか、蘇芳くんにはわかりますか?」
 問いかける私の足元の影から、無数の視線が突き刺さる。
 幸せな家庭に子どもは三人、のんきに夢想していたことだってあった。結婚を考えていた人もいた。まだ、この身に背負わされた業も知らなかった頃の話だ。
『何故お前が生きている』
 用意されていたはずの未来、母の身勝手で奪われた未来。蘇芳くんのように生命力に溢れた子ども達を目にするたび、奴らはこうして私を責め立てるのだ。自分達だってあんな風に生きられたはずなのに、と。死なずの呪いをかけられた私に。
『何故生きている? 幸せになれるとでも思っているのか? 剥ぎ取った肉を業と呪いで継いだ死体人形。そんなお前が人間の顔をしてもいいと思っているのか。弔いのヤシロなどいない。お前には相応しい名は――償いのハカだ』
 ……うるさい、黙れ。亡者は亡者らしくおとなしく死んでいろ。
 執念く私を責め苛む迷妄を、小さく温かい手が覚ましてくれた。蘇芳くんが心配そうに顔を覗き込んでくる。気配は、とうに去っていた。
「お兄さん頭痛いの? ソフトクリーム食べてキーンってなった?」
「あ……にゅふふ、そうみたいですー」
「あのね、男の子の話だけど」
「あ、はい」
 一瞬自分でも忘れかけていた話題に引き戻される。蘇芳くんは腕を組みながら真剣な顔で言った。
「誰かがメリーゴーランドの外から助けてくればいいのにね。一人じゃ降りられなくても、誰かと一緒ならきっと降りられるんじゃないかなぁ」
 みしりと、音を立てるような勢いで心臓が跳ねる。言葉を失くした私に気付く様子もなく、蘇芳くんは晴れやかに、何の憂いもない顔で続けた。
「もし僕がその男の子だったら、きっとお母さんが助けてくれるよ。それでね、大きくなったら僕がお母さんを助けるんだ、ふひひ」
 そう言い、蘇芳くんは少し照れたように笑った。
 思わず息を飲む。手を差し伸べ、因果を断ち切ってくれる救い主――まさにそれこそが私の渇望してやまなかったものだ。どうして彼が、偶然とはいえそのことを言い当てられたのか。
「蘇芳くん、あなたは――」
「蘇芳ー」
 その瞬間、のんきな声が私の緊張を断ち切った。
 蘇芳くんは安堵の表情から一転して頬を膨らませ、ベンチを飛び降りる。その先に一人の若い女がいた。彼女は蘇芳くんを受け止めて、安心したように笑う。
「もう、お母さん! ちゃんと待ってなさいって言ったのに!」
「ごめんごめんー。だって、あっちでなんか面白そうなことやってるからさぁ」
「もう一人でふらふらしちゃ駄目だよ。お母さん、また迷子になるからね。わかった?」
「はーい」
 迎えに来たのはずいぶん若い母親だった。眠そうな目元と黒髪がそっくりの、まさに一卵性親子。今時珍しくはないが、この分だと十代かそこらで蘇芳くんを産んだのだろう。
 再会を喜び合う二人を、いささかぼうっと見守っていると、蘇芳くんが私の前まで母親を引っ張ってきた。
「あのね、おにーさんがソフ……案内所までつれてきてくれたんだよ」
「それはそれは、息子がご厄介をかけて申し訳ない」
「いえいえ、とんでもないです。にゅふふ」
 蘇芳くんの母は深々と頭を下げ、そして私の顔を見たまま何故だか薄く笑った。
「ははぁ、なるほど」
「はい?」
「まぁ、あと十年は待ってよね」
「……?」
 意味のわからない言葉に首を傾げつつ、蘇芳くんを見やる。
 その顔には母親に対する絶対の信頼だけがある。そうだ、二人で母親を待っていた時も、はぐれたことに対する不安はなかった。彼は疑いようもなく信じているのだ。何があっても必ず母が迎えに来てくれると。例え父親の姿はなくとも、そこには一つの完成した家族があった。
「日も暮れてきたことだ、そろそろ帰ろっか」
「うん」
 促され、踵を返しかけた蘇芳くんは何を思ったのか、不意にこちらを振り返った。まるで彼の未来のひとかけらを、永劫の停滞に囚われた私に分け与えてくれるかのように。
「れーいちお兄さん、さよーならー」
 笑顔で大きく手を振ってくれる彼に、私もまた手を振り返す。
 今はまだ、その笑顔の前に越えられない柵が張り巡らされているけれど。またいつか、会うことができたならば。

「さようなら、蘇芳くん」
 私は羨望を込めて母子の後姿を見送った。

2011/03/03
2012/08/26 再up

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