タランテラ

 もうじき夏が訪れる。私達二人にとって大きな意味を持つだろう、腐臭に満ちた季節が――

 時計の針だけが音を刻む居間で本を読んでいると、見知った男が庭から顔を出した。
 こいつは呼び鈴というものを鳴らさない。いつも猫の子のように縁側から上がってくる。そのことを嗜めると「愛人は玄関から上がれるような身分じゃないんでー」と笑った。どうやら勝手口を使う殊勝さはないらしい。
「なにその仏頂面。かわいい幼な妻が、旦那のだーいすきな菱屋の真綿餅買ってきてあげたってぇのに」
 いけしゃあしゃあとのたまいながら入ってきた男、我が家の係累である津野田家の現人は、ニヤニヤと笑う。奴は私の愛人、身も蓋もない言い方をすれば使い走りであり、性処理係だった。
 生憎今日は家の者がいない。現人は私の指導によって、ここ数年でようやく満足のいくものになった煎茶と共に真綿餅を持ってきた。
 春物の薄いセーター越しにも骨格の優秀さが垣間見える。
 茂狩村に住まう者は往々にして世間一般よりも美しい造作をしており、その水準は家柄に正比例して上がっていく。言うまでもなく、人を惑わす鬼の血の濃さが影響しているわけだ。
 ごく薄い求肥で包まれたきめ細やかな白餡の風味が何とも美味い。
 これは生前、母が好んで買い求めた菓子だった。少女のような指に添えた黒文字でそっと切り分け、口に運んでくれたことをよく覚えている。
『どう、幹孝さん。おいしいでしょう? お母さん、これが大好きなの』
 心地よい甘さに満たされながら、微笑む母にはっきりと欲情した幼い日のことを、今でも覚えている。
 老舗ならではの絶妙な甘みと柔らかさに母との思い出を重ねていると、不意に隣から忍び笑いが聞こえてきた。
「何を見ている」
「いやね、甘いものを無心に食べるおっさんってかわいいなぁってね。しかもこんなにうわばみっぽい外見で酒飲めないんだもん、かーわーいーいー」
 現人は心にもないことを平然と口にする。
 だが私は、心のこもっていない言葉が嫌いではない。特に、腹の内を探り合うようなこの関係の上では痛快とさえ思っていた。
「そもそも尊也が甘いもの嫌いになったのだって、絶対甘党の旦那の影響、」
 黒文字が手の中でへし折れる。穏やかだった場の空気も、共にへし折れたかもしれない。現人の口から放たれた忌まわしい文字の連なりに、母との思い出を汚された気がした。
「その名を口にするなと言っているはずだ。はらわたを撒き散らして死にたいのか、現人」
 晩春だというのに、二人の間にある空気が凍り付いていく。自分の目が赤く染まっている自覚があった。
 一触即発の沈黙を破ったのは、現人が肩をすくめる仕草だった。寝床に限った話ではない。この男は私の扱いを心得ている。
「すいやせん、オレが悪うございましたっと」
 つい口をすべらせた体を装って人の神経を逆なでする現人に、私もそ知らぬ顔で意趣返しをする。大した意味はない。これは言うなれば私達一流の挨拶のようなものだ。
「酔狂なことだ、お前は仮にもあれの親友なのだろう? 尻まで使って友人の実家を乗っ取ろうとはね、さすがの私も理解に苦しむ。あれがこのことを知ったらどう思うだろうな?」
 ひくり、と現人の白い喉が震える。
 それは常人ならば見過ごして当然の変化だが、私が看過することなどありえない。現人はまるで自分自身を落ち着かせるかのように道化じみた笑みを浮かべる。必死で怒りを押し殺しているのだろう。それは、いささか病んだ笑いだった。
「あっはっは! よく言うよ、この前だってドピュドピュ馬みてぇに中出ししたくせにー。どうせあいつもあんたの息子もここに帰ってくるこたありえないんだ。跡を継ぐ者もなく朽ちて滅びていくくらいなら、誰かが有効利用してやるのが家のためってもんでしょ? オレはお足さえいただけりゃあ……ね」
 現人はわざと下衆ばった表情を作り、くくくと喉を鳴らした。私は委細承知した、つまりは完全に奴を侮った顔を作りながら茶を含む。
 馬鹿者め。
 こうして尊也を侮蔑するたびにお前の身の内で膨れ上がる殺意と憎悪、私がそれに気付いていないとでも?
 私はずっと以前から、現人の存在に気づいていた。
 津野田家の次男坊という意味ではない。好きになってはならない相手を求める、禁忌を犯した者同士だということに気付いていたのだ。私達は同類だった。奴が気づくはるか以前から、私はその腐った臭いを嗅ぎ取った。
 人間は一枚岩ではできていない。
 現人は母を甦らせて娶るという私の目的を、気の触れた男の迷妄だと思っていることだろう。逆に言えば、私の中にあるのはそれきりだと思い込んでいる。
 だがその気持ちと同じくらいに、静かにあの人の元に還りたいと思う気持ちも私は持っていた。
 神になり全てを手に入れたいと思う自分、最後まで人間として母の元に還りたいと願う自分。当時、私の内面は、その二つに引き裂かれそうになっていた。
 片方が叶えば、当然片方は叶わない。二律背反に苦しみ、しかしどちらを選ぶこともできず、追い詰められた私はこの選択にランダムな要素を取り入れることにした。一種の賭け、と言ってもいいか。
 ――この小僧にしよう。
 その日から、奴ら二人が共にいる時を選び、私は殊更ひどく尊也を侮辱するように努めた。
 尊也のための憎しみなどというぬるいものではなく、現人が我から私自身を憎み、執着するように仕向けた。この男が蓄積された怒りを簡単に暴発させたりはしないことを、私は直感で見抜いていた。
 現人は今歩いているこの道を、自分が選んだ道だと思っていることだろう。全ては尊也のため、憎しみを糊塗して私を陥れるために近付いたと。現人によって鬼の封印の解除が最終段階に近付いていることさえ、私は把握していた。当たり前だ、奴が自然にそう動くよう仕向けたのだから。
 そうだとも。お前という毒蜘蛛を引き寄せて、私は私自身に罠を仕掛けた。一度噛まれたなら死ぬまで踊り続けるしかない危険な毒蜘蛛を、我から口に入れたのだ。
 だというのに、この男は本当のところは何もわかっていないのだ。そして私はそのことに失望すら覚えている。
 共犯者でありながら、最も奥底にあるものを完全に共有できないのは空しい。もちろん、共有されてはいろいろと困るのだが。
 だが安心しろ現人。審判は誰よりも公平だ、何しろ人知を超えている。
 私かお前か、鬼としてより優れた資質を持つ者に山の神は祝福を与えてくれる。力という名の祝福を。それを持って私達の賭けは決するのだ。
 私は完全なる鬼と化し、屠蘇の血を手に入れてあの人を娶る。その時はお前のことなど思い出しもしないだろう。だがお前が勝てばその時は。

 私は花の香りに誘われるまま庭に出た。
 母の愛した慎ましやかな春の花が散り果てれば、この庭から花はなくなる。庭にはこの時期に咲く花しか植えていない。私は夏の花が嫌いだった。あつかましいその色と形と臭いを憎んでいた。
「現人、お前はいつか、足元をすくわれる」
「そんなヘマなんかしないから大丈夫ッスよー」
 お前如きにしてやられるものか――軽薄な声音の下から、隠しきれない侮りが顔を覗かせる。
 ああ、やはりわかっていない。何も私がお前の計画を阻む蜘蛛になるとは限らないのだ。お前の野望を打ち砕くのは、一体誰なのだろうか。私か、それともそれ以外の誰かか。もし私が敗れたとしたら、絶望に歪むお前の顔を見られないのは、いささか心残りかもしれない。
「旦那?」
 薄く笑った私を見て、縁側に腰を下ろした現人は不思議そうに首を傾げた。その唇を捉えて塞ぐ。男はひどく自然な所作で腕を回してきた。私の感触に尊也を想っていたのかもしれない。
 私はこの男を微塵も愛してなどいない。
 この冷たい体の中に愛情と呼べるものがあるとしたら、それは生まれてから死ぬまであの人だけのものだ。だが同時に私は、現人を一等気に入っている。このちっぽけな世界で唯一見つけた同類。手ずから選び引き寄せたお前にならば、万が一負けてやっても悔いはないと思うくらいには。二律背反。それは不思議な感覚だった。
 現人は肝心な時に後手に回る悪癖がある。生来奢ったところのあるこの男は、のんびりとあくびをかましながら人をいたぶり、喉下まで水がきた時に初めて慌てだすのだ。
 仮にお前が私を上回ったとして、私とそっくり同じ顔立ち、同じ声を持つあの忌々しい生き物をお前はどんな顔で抱く?
 水はそこまできている。もう後には引けない。死の間際、お前は思い知るだろう。取り入ったのは何も、お前だけではないということを――
「楽しみだ」
「次の狩りが?」
「それもある」
 ああ、楽しみだ。実に楽しみだ。祭りの日は、近い。

 そして。
 死の瞬間、私は確かに笑っていた。派手にひしゃげたそれは、端から見れば恐怖の形相に見えたかもしれない。だが現人は、あの男にだけはわかったはずだ。今際の際に、私が満足げに笑っていたのだということを。

 私が最期に見たもの、それは。
 確定した勝利に酔いしれ、一目仇の死に顔を見てやろうと傾斜を駆け下り、しかし私を見た途端確かに怯えた――蜘蛛の顔だった。

2012/08/26 再up

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