ななさいじゅうはっさい
※なぜかしずめさんと蘇芳(7歳)と尊也さん(18歳)が一緒に住んでいるという前提

「それじゃ、たかくん。後はよろしく頼むね」
「わかりました」
「蘇芳、ちゃんとたかくんの言うこと聞くんだよ。泣いたりわがまま言ったりして、お兄ちゃんを困らせないようにね?」
「大丈夫だもん!」
「よし、いい子だ。んじゃ、行ってきまーす。おみやげ期待しててねー」
「おかーさん行ってらっしゃーい」

 木々を揺らす風が木枯らしに変わり始めた頃。
 しずめさんは家の前に停まらせたタクシーに乗り込み、高校の同窓会に泊りがけで出発していった。必然的に今夜は俺と蘇芳くんの二人だけとなる。
 彼女を乗せたタクシーが見えなくなるなり、小さな甥っ子は俺の腰にぎゅっとしがみついてきた。大江の血筋とは似ても似つかない母親譲りの黒い瞳が、信頼しきった視線を注いでくるのがくすぐったい。
「えへへ、お兄ちゃん、二人っきり」
「そうだね」
 内心の動揺を、とりあえず甥っ子の頭を撫でてごまかしておく。俺の疚しさに気付くこともなく、蘇芳くんはその場で飛び上がらんばかりにはしゃいでいた。
「お兄ちゃん、何して遊ぶ? 何して遊ぶ?」
「その前に宿題をすませよう。確か出ていただろう? 漢字のドリルと算数のプリントが」
「ええー」
「そんな顔をするなよ、お兄ちゃんが見てあげるから。嫌なことは早く終わらせて、その後でたくさん遊ぼう」
「うん……」
 素直に頷く蘇芳くんを促して家の中に入る。
 宿題を済ませた後は約束どおり庭でサッカーをしたり、近所の駄菓子屋に行ったり、図書館で借りてきた本を読み聞かせて過ごした。

 そしてすっかり日も暮れた頃。
 居間のテーブルで課題を済ませた俺は俄かに空腹を覚え、夕飯を整えるためにイスから腰を上げた。
「蘇芳くん、そろそろ夕飯にしようか」
「え、ご飯!?」
 何気ない言葉に、しかし何故だか大きな反応を返した彼は、夢中になっていたポケモン図鑑を閉じてイスから飛び降りた。
「お兄ちゃんちょっと待っててね。あ、ご飯のしたくしたら駄目だからね!」
「?」
 あっけにとられた俺を残してどこかへ行ってしまった蘇芳くんは、ほどなく居間に戻ってきた。
「じゃーん、お兄ちゃん見て見てー」
「どっ……蘇芳くん、どうしたんだそれは?」
 蘇芳くんが身につけているそれはフリルがたっぷりついた、ステレオタイプの新妻の着るが如しエプロンだった。彼は真っ白なエプロンの端をつまみ、照れながらもその場でくるくる回り始める。
「あのね、この前お母さんが買ってきてくれたんだ。着たらお兄ちゃんが喜ぶからって」
「そ、そうなのか」
「えへへ、ご飯の時に使おうと思ってたんだ」
 ……あの人は。
 いたずら好きな人だと知ってはいたが、本当にどうしようもない。義姉の思考の突飛さに頭を抱えた俺が無言でいることに不安になったのだろう。蘇芳くんが眉を下げたまま顔を覗き込んできた。
「お兄ちゃんエプロン嬉しくない? ふりふり嫌い?」
「そんなわけないだろう。その……とてもよく似合ってる、かわいいよ」
「僕、今夜はこれでお給仕頑張るね!」
 もし今俺が一人だったなら、冗談ではなくその辺りを転げまわっていたかもしれない。

 夕飯を整えると言っても大したことはない。
 昼間セットしておいた米は既に炊きあがっていたし、しずめさんが作っておいてくれたおかずもみそ汁もある。後はそれらを温めて盛り付けるだけだ。
 蘇芳くんはどこか得意げにご飯をよそい、意気揚々と卓の上に並べ始める。ままごと遊びとは違う本物の給仕に夢中になっているその姿は何とも微笑ましく……同時にどこか疚しい気持ちを俺に抱かせた。しかしそれも湯気の立つみそ汁を運ぶという段になって、俄かに不安へと変わる。
「蘇芳くん、危ないからみそ汁だけでもお兄ちゃんが運ぼうか」
「平気だよ、全部僕が運ぶの!」
 まぁ確かに、子どもの自主性を養うためには何でもやらせてみたほうがいいだろう。大人の勝手な判断でそれらを取り上げてしまうのはいかにも、褒められたことではない。
「わかった、ただし熱いから充分気をつけてな」
「うん!」
 しかし不安というものは、自ずからよからぬ事態を呼び寄せるものなのだろうか。
「わぁッ!?」
 みそ汁に意識を集中するあまり、足元にまで注意を払う余裕がなかったのだろう。蘇芳くんは廊下の角に足の小指をぶつけた拍子に、あっさりと転んでしまった。
 こぼれた熱いみそ汁が彼の肌に触れる前に、急いで抱き上げる。
「蘇芳くん、大丈夫か! 火傷はしなかったか!?」
「大丈夫……でも、おみそ汁こぼしちゃった……」
「そんなことはどうでもいいよ、君が無事で何よりだ。ご飯よりも着替え……いや、いっそ風呂にするか」
 みそ汁はほとんどが床にぶちまけられ、エプロンには大きな染みができていた。
 蘇芳くんが火傷をしなかったのは、しずめさんの悪ふざけが偶然功を奏したからだ。こうなってしまっては着替えさせるよりも風呂に入れてしまったほうが早い。
 ひとまず怪我がなかったことに安堵した俺とは裏腹に、彼の目には見る見るうちに涙が盛り上がっていく。
「うぐ……、ひっく。おみそ汁、エプロン……」
「泣くな、泣くな。失敗は誰にでもあるよ」
「うぐ、ごめんなさい、ひっく……」
 しゃくりあげた蘇芳くんが、夢中でしがみ付いてくる。汚れたエプロンごと抱きしめてぽんぽんと背中を撫でてやると、ようやく嗚咽が止まった。

 風呂に入った後、改めて食事の準備を整える。
 冷めてしまったご飯とおかずを温めなおし、かろうじて残っていたみそ汁を二人でわけあって食べる。大好物のスコッチエッグを食べる蘇芳くんは、傍目にもしゅんとしていた。
「お給仕頑張るはずだったのに。僕、役立たず」
「蘇芳くん。自分のことを役立たずだなんて、嘘でも言ったら駄目だ。それに途中までちゃんとできていただろう?」
「うん……」
「いきなり何でもできるようにならなくていい。ゆっくりやればいいんだ」
「うん、ありがとう」
 そう言って頭を撫でると、彼はようやく元気を取り戻して笑ってくれた。
 と、何を思ったのか自分のスコッチエッグを箸でつまんで目の前に差し出してくる。俺が反応に困っていると、彼は焦れたようにさらに箸を近づけてきた。
「お兄ちゃん、あーん」
 お世辞にも行儀がいい行為とは言えないが、でも。
 甥っ子の無邪気な視線に負けた俺は、観念して口を開け、スコッチエッグを咀嚼した。かかったソースの甘さとは違う何かが、喉を駆け下りていく。
「おいしい?」
「とてもおいしいよ。蘇芳くんが食べさせてくれたからかな」
「えへへ」
 蘇芳くんは無言のまま、俺に期待の眼差しを注いでくる。
 彼が何を望んでいるのか気付き、皿の中で運よく手付かずだった分に箸を伸ばす。と、途端に抗議の声が上がった。
「やだ、そっちのお兄ちゃんの食べかけがいい!」
「本当に食べかけでいいのか?」
「うん」
 躊躇いつつも、自分の歯型の付いたスコッチエッグを彼の口元に運ぶ。俺の躊躇いも何のそのといった様子で、蘇芳くんは心底幸せそうな顔をしてみせる。
「えへへ、お兄ちゃんの食べかけおいしい」
「こんなに甘えん坊で、お兄ちゃんは蘇芳くんの将来が心配だよ」
「ずっとお兄ちゃんと一緒にいるからいいもん。……お兄ちゃん、甘えん坊嫌い?」
「そんなわけないだろう。お兄ちゃんが蘇芳くんを大好きなのを知ってて聞いてくるなんて、意地悪だな」
「えへへー」
 小さく額をつつくと、彼はとろけそうな笑みを浮かべた。きっと俺も同じ顔をしていたことだろう。

 夜。
 一つの布団の中、俺達はいつものようにぴったりと身を寄せ合っていた。俺にしがみ付いた蘇芳くんは何を思ったのか、くすくすとしのび笑いを漏らす。
「お兄ちゃんいい匂い」
「蘇芳くんの方がいい匂いだよ」
「僕どんな匂い?」
「お日様の匂いかな」
「お兄ちゃんはねぇ、えっちな匂い」
「……やれやれ」
 俺は昔から他人がそばにいると神経が昂って眠れない性質だった。だから寮にいたときも本当の意味で熟睡できたことはない。なのに今、傍らの温かさに何よりの安堵を感じている自分に気がついて苦笑する。このままいくと一人で眠れなくなるのは彼ではなく、この俺だろう。
「僕、お給仕ちゃんとできなかったけど」
「?」
「お嫁さんのお仕事、他にもあるよね?」
 蘇芳くんは歳に見合わないことを言いながら俺の体の上に乗ってくる。
 彼と触れ合ったところから、すぐに心地よい重みと温かさが伝わってきた。小さな心臓がはちきれそうに早鐘を打っているのが分かる。
「蘇芳くん」
「僕、ほんとはすぐしたかったのに。お兄ちゃん、明るいうちはだめって言うんだもん」
 小さな体が覚えたての快感を求めて火照っていることに気付くともうたまらなくなり、気がつけば彼を腕の中に抱き込んで唇を重ねていた。
「お兄ちゃん、大好き」
 全力で甘えかかってくる甥っ子を前に、俺のなけなしの理性は儚く散り果てた。

「蘇芳、たかくん、たっだいまー」
「おかーさんお帰り!」
「お帰りなさい」
 翌日の昼前、しずめさんは土産の紙袋をぶら下げて帰ってきた。
 やはり蘇芳くんは根っからの母親っ子だ。二人だけの夜にはしゃいではいても、内心は寂しかったのだろう。しずめさんの胸に一直線に飛び込んでいくその姿に思わず苦笑する。
「どうそうかい楽しかった?」
「楽しかったよー。あー、久々に飲みすぎて頭ぐらぐらするー、たかくん義姉さんにお水ちょーだい」
「今持ってきます」
「お母さんお酒くさいー」
「毒の吐息をくらえー」
「やだあああああああ」
 ひとしきり愛息子とふざけたしずめさんは、俺の持ってきた水を飲みながら不意に首を傾げた。
「蘇芳、なんか目が赤くない? ははぁ、さてはあんた、お母さんいないのが寂しくて泣いたね」
「違うもん!」
「嘘だぁ、声だってガラガラじゃないのさ」
 からかわれた蘇芳くんはいささか憮然としたのち、まるで加勢を求めるようにこちらを振り向いた。
「お兄ちゃん、僕泣いてないもんね」
「あ、ああ」
「本当にぃ? まぁたかくんが言うなら信じてあげよっか」
 しずめさんが言う、寂しさやら何やらという意味では泣いていない……はずだ。
 今の会話で連鎖的に昨夜の光景が思い出されて、途端に体が熱を持った。全く、本当に俺はどうしようもない男だと思う。
 鞄を持ったまま居間に足を踏み入れたしずめさんは、途端に変な笑い声を上げた。
「あらら……これは参ったね」
「!?」
 不穏な物言いにぎょっとして、彼女の視線の先をたどる。
 そこにあったのは昨日洗濯して部屋に干しておいたエプロンだった。義姉が何を考えているのかようやく気付いたが、もう遅い。彼女は特有の意地の悪い猫じみた表情で、俺の肩を叩いてきた。
「愛し合う二人に野暮なこと言うつもりはないけど、蘇芳はこの通りまだ小さいんだから。その辺はたかくんが控えてもらわないとねぇ」
「しずめさん、誤解です。というよりわざと誤解してるでしょう」
「しーらなぁい」
 彼女はぺろりと舌を出して、土産の袋をがさがさ言わせ始める。
 もう少し人並みの母親らしい反応の仕方というものがあるんじゃないだろうか。二人の関係にとっくに勘付いているらしい彼女は、しかしこちらがびっくりするほどそれについて何も言わなかった。
 恐らく彼女は、蘇芳くんが幸せである限り何も言わないのだろう。
 最も俺が蘇芳くんを裏切るような真似をした場合、苦言を呈するよりも先に殺されるかもしれないが。恐らくは山あたりに穴でも掘られて埋められるはずだ。
「ほらお土産。蘇芳にはケーキ、たかくんには干物があるよ」
「わーい」
 あれほどに忌まわしく閉ざされたこの場所が、何よりもかけがえのない場所になる日が来るなど、あの頃は思いもしなかった。
 朗らかに笑いあう親子の姿に、俺は彼と彼女を守るために生まれてきたのだと、心からそう思えた。

2012/08/26 再up

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